先日のエントリ「外国語研究の本義」では「広田先生を突き詰め、反転させるのだ」なんて書いたけれど、どうも「脱構築」とか「反転」とか言ってしまうと、それはそれで一種の思考停止とも取られかねないので、もう少し具体的に言ってみよう。たとえば、日本国内で多くの研究者がよってたかって独自の研究を行い、英語圏などにひけを取らない研究成果を「あくまでひたすら日本語で」集積し、英語圏側に比肩できるほどに成長したら、逆に英語圏側も、現状のようにまったく無視はできなくなるのではないか、ということ。普遍語が猛威をふるうような状況で、あらゆる現地語が対抗しうる唯一の方途というのは、普遍語におもねって結果的に頭脳流出を招くようなことではなく、むしろ現地による考察の牙城をきっちりと築くことなのではないかしら、と。個人よりも集団で存在感を高めていくというわけだ。
実際、少し前の時代のフランス文学とかフランス史学などでは、卓越した一握りの著名な先生方が、必ずしも多くの仏語論文を発表せずとも、両国間交流を通じて、本国側の研究者にもそれなりに一目置かれる、といった状況があったはず。そういうコアな研究者たちを通じて、「なるほど日本には優れたフランス文化研究者がいるのだな」という認識が、今よりもフランス本国の関連学界で共有されていた(ように思う)。けれども、そういう人たちが数の上で限られていたこともあり、またより若い世代が人的交流の活発化に伴って早い段階から本国を意識するようになり、結果的に「一目置かれる」という状況は早々と薄らいでしまったのではないかしら、と。
本当は「一目置かれる」状況をもっと拡張して、より集団的に「日本の学界は結構やるじゃん」みたいに言われるところにまでもっていけばよかったはず。つまりはこれが、各人が内向きさを徹底することで、逆に集団的な認知を対外的に促すという「反転」の一例になるだろう。「それでは素朴すぎる」と言われるかもしれないし、確かに理想論ではあるけれど、現状のような中途半端な生煮え状態ではどうしようもないだろうし、教育・研究の現場が解体するよりはよっぽどましというもの。日本語での学問的営為はよくガラパゴスに譬えられるけれど、徹底化すればガラパゴスだって貴重な存在になれるはず(本物のガラパゴスだってそう(笑))。というか英語以外、フランス語なども含めて「現地語」が今後取るべき方向はそういうところにしかないような気もするのだが……。
どうすればそういう方向にもっていけるか、と考えてみて、あえて一つとっかかりを言うなら、人文系を中心に、とにかく研究活動と大学関連の就職という結びつきを徹底的になくしてしまうのはどうだろう。現状では、博士号を取らないと就職できないといった条件のせいで、あらゆる学生を博士号取得に駆り立てる一方、大学での教職ポストの供給が追いつかない現実は棚上げにされている(と聞く)。なら、むしろ博士号なんか出さず、あるいは出しても就職と関係ないところで出し(それって昔みたいだけれど(笑))、就職は「必ずしも専門は生かせないだろうけど」という条件付きで、たとえば初等・中等教育の教師なら保証するよ、みたいにしておく(そういうセーフティ・ネットくらいは用意しろよ)。で、一定の「試験」などを課して大学の教師にもなれるような仕組みも合わせて作っておく。モデルはそう、フランスのアグレガシオン制度をベースに手直しするみたいな。とにかく、研究の営為を、さしあたりの死活問題である就職問題から切り離すことが、ガラパゴス徹底化の第一歩になるのでは、と。管見にて御免(”my two cents”ですな)。