リクールの記憶論……

昨日の続き。イザベル・ボシェの小著が最後に扱っているのがリクールの記憶論。リクールは記憶の帰属を三種類にわけて考えているというが(自分自身、近親者、他者)、この三分割の着想のもとにもアウグスティヌスがあったとされている。「精神(mens)」の内部に三位一体の像を求めていくというアウグスティヌスのそもそもの出発点が、リクールの記憶論にとっての出発点にもなっているという話。もちろんその後の展開は大きく異なる。アウグスティヌスは「記憶、知解、意志」の三分割にそのイメージを求めていくのであり、あくまで個人の魂を単体で考える。それに対しリクールの場合は、間主観性をも含んだ内省の面に三位一体のイメージを求めているのが独自なのだという。近親者に帰属する記憶というのは、要するに自己承認の記憶のこと(親や兄弟姉妹を通じて自己承認が得られる、と)。でそれは、個人の記憶(自分自身に帰属する)と、集団的記憶(他者に帰属する)の中間体であり、両者を架橋する媒体をなしているのだという。うーん、これはとても面白そうな議論だ。その自己承認の記憶という概念自体も、アウグスティヌスの『告白録』10巻から着想されているのだという。それはまた、記憶を支える「蓄えの忘却」というとても刺激的なテーマ(これも直接的にはベルグソンなどが着想源とされるけれど、間接的にアウグスティヌスの影響も考えられるという)へとも繋がっていたりもするらしい。こりゃ個人的にもリクールのテキストをちゃんと読まないと(苦笑)。

うーむ、それにしてもやはりアウグスティヌスは宝の山だなあ。三位一体のイメージの読み込みにしても、アウグスティヌスの三分割(記憶、知解、意志)は、リクールが記憶をさらに三分割してみせたように、分割されたそれぞれの項に、さらに入れ子状態に取り出すことができたりとかしないかしら……なんて(笑)。ま、それは単なる思いつきだけれど、さしあたりはリクールなどを通じて見たアウグスティヌス、という感じでもう少しこだわってみたいと思う。