14世紀のアヴェロエス主義

アラン・ド・リベラの『主体の考古学』第2巻は、フランスのこういう連作ものにありがちなように、スタイルもアプローチも1巻目とは大幅に違っていて、個人的にはなにやら取っつきにくい。主体問題がとりあえず喫緊の問題ではないのだけれど、行きがかり上というか、もうちょっと中世にきっちりこだわった議論が読みたいと思い、オリヴィエ・ブールノワ編『主体の系譜学 – 聖アンセルムスからマルブランシュまで』“Généalogies du sujet – de Saint Anselme à Malebranche”, ed. Olivier Boulnois, Vrin, 2007)を見始める。これ、従来の論集に比べて特徴的なのは、どの論文もトマスやドゥンス・スコトゥスなどの主軸の人物たちではなく、アンセルムスはともかくとして、多くが14世紀の後期スコラを論者たちを主に扱っているところ。少し研究風土が変わってきたのかもしれない(?)。

ちらちらと見た限りでは、ジャン=バティスト・ブルネの論考が興味深い。「主体」としての個人意識の高まりが「アヴェロエス主義」への反動を契機として強まった側面を、トマス以後の14世紀の思想的風景の中に描こうというもの。たとえばアヴェロエス擁護派のジャン・ド・ジャンダンは、ブラバントのシゲルスを触発される形で、トマスが詰問したアヴェロエス的な能動知性の分離の考え方に、人間は身体と知性から成る集合体で、その理解も個別的理解と普遍的理解の結合した二重性にあるという新しい視座を出してくる。これに対して反対するのがリミニのグレゴリウスで、そういう二重性の人間像は日常的経験に反すると論究するのだという。これにさらに続くアヴェロエス擁護派オリオールのペトルスも、ジャンダンに近い議論を展開し、結局この集合体論・二重性論はそれなりの統一性があるものと見なされて、知性の分離の議論もかつての議論とは相当違った様相を見せるのだという……。

そういえば余談だけれど、このところブログ「ヘルモゲネスを探して」さんが、リミニのグレゴリウスによる興味深いスペキエス論について取り上げている。これは必読っすね。