そのタイトルに惹かれて(笑)、中山康雄『現代唯名論の構築 – 歴史の哲学への応用』(春秋社、2009)を読み始める。とりあえず最初の3分の1にあたる3章まで。バリバリの難しい論考なのかと身がまえていると、想定読者に「君」と語りかけるスタイルで、入門書的な雰囲気を漂わせてくる。とはいえ、実際に「一般外延メレオロジー」の話に入っていく段になると、形式論理学っぽさが増してくるので、ちょっと読むスピードが落ちてくる……(苦笑)。同書の基本スタンスは、外的世界には個物しかなく、その個物をインスタンス(事例)として上位のクラス(類)を作るのは認識の働き、つまりは形式論理学的操作でしかないというのが出発点(だから唯名論ということになるわけだけれど)。で、部分と全体を形式論理的に考えるメレオロジー(部分論)が、その操作を説き明かすための基本体系として用いられる。個物は何かの部分をなし、それらが何らかの全体をなすのは、メレオロジーというある公理系に沿って操作されているからと説明できる、ということか。同書で用いられる「一般外延メレオロジー」、一見するとなんだか特殊な公理系のようにも見えなくもない。でも、「いやいや、これって日常の言語がやっている操作に近いでしょ?」ということを著者は示そうとしているようだ(というか、日常言語にある程度近くないと、形式論理の操作としては一般性を得られないことになってしまう?)。
クラスには様々なものがあり得るわけで、出来事や行為のようなものまで含まれるという(出来事や行為にも名前を当てることができるわけだから)。で、そういう時間の幅をもつものまで操作対象にするためには、部分としての時間も考えなくてはならない。その時間部分を考慮するために、同書でのメレオロジーは四次元主義と言われたりする。そう聞くとなにやら仰々しいけれど、とにかく言語的な処理の根源(形式論理)を解釈する以上、そういう時間部分の考え方は確かにある程度必要かつ有効そうには見える(ちょっと個人的には何かひっかかりも感じるのだけれど……それはまた別の話)。こうした道具立てでもって、副題にある「歴史」に向け、語りや記述などの問題がこの後論じられていくようなので、ちょっと楽しみではある(笑)。