少しペースが落ちているけれど(苦笑)、相変わらず読んでいるクルティーヌ『スアレスと形而上学の体系』。第二部第二章は、主著の『形而上学討論集(Disputationes metaphysicae)』の序論部分を読んでいくという趣向。この『Disputationes』は1597年刊ということで、スアレス49歳のころの書。その序文では、スアレスは神学と形而上学との状況について規定しようとしているという。それ以前の議論とは逆に、スアレスは神学すらも、理性にもとづいて予め確立された哲学的な原理に根ざさなくてはならないとの立場を取るのだという。著者クルティーヌはこれを大きな転換だと見ている。なるほど、これは確かに中世の神学と哲学の関係の逆転だ。かくして形而上学は完全な自立性を達成することになるのだと……。これが第一点。
続いて、やはり同じく序文の議論を追いながら、クルティーヌはスアレスが考える形而上学の対象が何なのかを見ていく。スアレスはその際に、形而上学の歴史的な展開を念頭に、従来型の6つの立場をそれぞれ批判していく。全体的に、スアレスは先の「哲学的対象への神の落とし込み」を継承・発展させる立場にあるようだ。その意味ではそれはトマスの見解に対立するし、一方で神すらも存在神学的な「論理」に従属させることにもなるという。では神をそういう学知に取り込むには、それはどういう学知でなくてはならないということになるのだろうか?神をも取り込む学知の「対象」とは何か?ここでスアレスが批判する6つの立場は、形而上学の対象をそれぞれ(1) 抽象的な存在全般、(2)理性における存在を除く存在全般、(3)最も個的な存在者、(4)神および被造物の知性、(5)範疇で分割される限りでの存在、(6)実体そのもの(これはビュリダンの立場とされるもの)となる。最初の2つはその対象のあまりの広さが、続く2つはあまりの狭さが、最後の2つは学的な威信に満たない点が批判される。で、そうした批判の中から反照的に浮かび上がる(6つの合間をぬって見出される)スアレスの見解では、「実在である限りにおいての存在者こそがこの学知の適切な対象」(ens in quantum ens reale esse objectum adequatum huis scientiae)となるのだという。この、一見内実の空虚な規定を擁護することにこそ、この『形而上学討論集』全体が費やされていくのだと……。うーむ、この規定の内実がもっとよく知りたくなってくる……。