スアレスが「実在である限りにおいての存在者」を形而上学の考察対象と規定した、という話を受けて、続く第二部の三章から五章までは、スアレスの考えるその存在者とはどういうものなのかという議論が展開するようだ。まずは三章。ここではスアレスが、ens(存在するもの、存在者)とres(事物、モノ)とを同一視していることが指摘される。著者によれば、これもまたそれ以前の考え方をひっくり返すものなのだという。それまでは一般に、ensがsumの分詞形であることから本質の現実態を意味し、一方のresはその「何性」、つまりは本質を意味すると解釈されていたという。
著者はここで、スアレスみずからが振り返っているそうしたensの従来型解釈の変遷を、改めて確認しつつまとめていく。まず上のような解釈の嚆矢はカエタヌス(1469 – 1534:イタリアの神学者で、トマスの注釈書で知られる人物)にあるという。ensを分詞形と見るか、名詞形と見るかで、その語が指す内容が異なるという議論はそれ以前からあったらしいのだけれど(14世紀のジャン・カペレオルス)、カエタヌスと、とりわけその同時代人シルヴェストリス・デ・フェラーラ(1474 – 1528、同じくイタリアのドミニコ会系神学者で、やはりトマスの注釈書がある)が、トマスのesseとessentiaの区別に絡めてその議論を再び取り上げ、ensとresの明確な分割を導こうとしていたのだという。ところがスアレスは、この分割をひっくり返してしまう。どうやらそれは、ensの名詞的解釈(「存在を有するもの」)を拡張する形で、「存在を有する、もしくは有しうるres(事物)」と同一視するという議論らしい。なぜそんなことをするかというと、こうすれば形而上学の対象としての「存在」から、その現実的存在・現実態を捨象でき、翻って存在者はあまねく「実在的な存在者」として扱えるようになるからだ。著者も言うように、これはほとんどスコトゥスの存在の一義性のような話になってくる。うーむ、このあたりを読むに、スアレスはかなり戦略的な人というイメージかも(笑)。また、ensの分詞的解釈は、名詞的解釈の対立項としては無効になってしまい、代わりに「非在」が対立項として考察されるようになってくるという。このあたりが次章で取り上げるトピックとなるらしい。