年末モードなので、積ん読からいくつか引っ張り出して読んでいるところ。そのうちの一つが、長谷川三千子『日本語の哲学へ』(ちくま新書、2010)。最初は和辻哲郎論かと思いきや、中盤でパルメニデスの存在論(とヘーゲル批判)にいたり、そこから一転して和辻とハイデガーへ戻り、最後には日本語の「こと」「もの」論になるという構成なのだけれど、それらすべてを貫くのが、哲学的思考と言語の関係性をめぐる問題提起。うーむ、確かに広い視野で大きな問題に取り組むあたりは大胆……でも個々の議論はどうなのか、という疑問も喚起される。とりわけ後半の「こと」と「もの」の議論。たとえば、「もの」「こと」が万葉集と現代語でほぼ同じだとしながら、一方では「もの」のニュアンスとして「無のかげ」が万葉集のほうに色濃く出ている、みたいな話が出てくるけれど、これではそれらが同じなのか違うのか微妙に曖昧になってしまう。また、「もの」「こと」が終助詞として使われる場合も、抽象語として使われる場合も同じ意味が通底しているという話(つまり両者は相互に交換できないということ)も、コロケーション的な決まりごとにすぎないかもしれないことを、あえて意味論として持ち上げているのでは、みたいな気もする。また、その意味論としての持ち上げの議論を担保しているのは、国語学者らの議論なのだけれど、さらに先に進んで「こと」が事と言に通底するという話になると、それらの著者たちも一蹴されてしまい、何に依拠しての論なのか今一つ分からなくなってくる。しかも「言語の堕落」みたいなよくわからない話も出てきたりして、なにやらある種イデオロギー的な彩りが濃くなってくるような気も……。うーん、ざっと読んだだけなので、何か読み落としているのかもしれないけれど、そんなわけで、なにやらビミョーに落ち着かない読後感。