ブラッドショウ本(その2)エネルゲイアからウーシアへ

11日の地震後(というかその前から)ブログ更新が止まっていたけれど、少しづつ復帰していこうと思う。というわけで、前回掲げたブラッドショウ本の続きというかメモから。余震と原発ニュースの中で、この数日の間ちびちび読む感じになってしまっているのだけれど、その意味ではよい気晴らしにもなってくれている。内容的な面とも併せて、これは記憶に残りそうな一冊かもしれない(笑)。

常々思っていたのだけれど、actus essendiなどという時の「actus」が、現実態と訳されつつも、どうも「働き、作用、営為」のような意味合いを含んでいるらしいのは、一体どのような思想的背景に根ざしているのかという疑問があった。で、どうやらその鍵はこの「エネルゲイア」概念的変遷を追うことにあったらしい。発端はもちろんアリストテレス。そこには「潜在力の行使」と「現実態」の二つの意味論が見出されるといい、それが「不動の動者」の概念と絡むことで、一種の神学的な下地が出来上がる。とはいえ、リュケイオンの後継者だったテオプラストス以降、天空の円運動などを指す意味のみが受け継がれていく。一方、「エネルゲイア」に神の表出(それにより神が知られるもの)の意味が再浮上するのはアレクサンドリアのフィロン(ピロン)からだという。さらに中期プラトン主義(主にヌメニオス)がフィロン的なエネルゲイア概念を取り込み、さらにアフロディシアスのアレクサンドロスにいたって、「行為」と「現実態」の二つの意味が再度つながれる。

その二重の意味はプロティノスの体系において、実体の「内的」作用と「外的」作用(知性と一者)とに規定され直し、完全に二つのヒュポスタシスとして定義し直される。これが偽ポルピュリオスの(逸名著者の)『パルメニデス注解』になると、「一者」(概念としての)と「存在する一者」の区別となって現れる。一者の「エネルゲイア」はその「存在」とイコールとされ、プロティノスの一者と知性の区別は一者を考察する二つの仕方へと縮減されていく。まさにここに、ある種の行為としての存在という、その後中世へと受け継がれていく概念の嚆矢があるのだ、と。うーん、なるほど、『パルメニデス注解』か。これ、前にも出てきたことがあるなあ。落ち着いたらぜひ目を通さねば!

Wikipedia (en) より、ポルピュリオス