二年半くらい前に購入して三分の一くらい読んだところで放置していた本を久々に眺め直す。ものはジョルジョ・スタビレ『ダンテと自然哲学 – 知覚、言語、コスモロジー』(Giorgio Stabile, “Dante e la filosofia naturale – Percezioni, linguaggi, cosmologie”, Sismel – Edizioni del Galluzzo, 2007)。ダンテについての論を中心とした個人論集だけれども、副題にあるように、言語の問題やコスモロジーについての議論が展開していて、むしろ力点はそちらに置かれているような印象だ。以前読んだところは結構忘れているけれど、そのあたりを振り返るのは後にして(苦笑)、とりあえず七つめの論考「音楽とコスモロジー:天界の調和」から読み始める。音楽と天体・天球の関連はもちろんいろいろと言われてきたわけだけれど、つきつめて考えてみると、音楽的調和と天空のイマジェリーの調和とがどうして重ね合わされたのかという問題は今イチ解せないところもないではない(笑)。というわけで、そのあたりの関係について考察したのが同論文。以下、印象を交えたメモ。
まず取り上げられるのはロバート・キルウォードビー(13世紀のドミニコ会士、後のカンタベリー大司教)の著作『知の起源について』(De ortu scientiarum)。ボエティウスの算術論などをベースにしているという同書は、数学を諸学(特に音楽と天文学)の母体と見なしているといい、幾何学的な調和と時間的な調和とが当然のごとくに重ね合わされているという。当時、そもそも時間について言及するとは暗に天体の周期的時間について言及することでもあったわけだけれど、著者はここでいったんステップバックして、時間とは運動がもたらす量という、アリストテレス的な時間概念にまで遡る。まさにはじまりの、時間と数とが重なるところか。
数学は音楽や天文学を支えるものではあるけれど、一方で、数学は幾何学や音楽を通じて「後から」母体として「発見」されたとの位置づけも可能かもしれない。両学科に適用された数は、ユニットの総和を表すというよりもむしろ大小関係、比を表すようになる。というか、そういう比を表すものとして数が設定される。音楽におけるモノコルドの比、天体の軌道の長さなどなど。それらにより、数と時間は構造的に同形で、両者は同じ調和をなすと考えられるようになる(例として4世紀のカルキディウスが挙げられている)。つまり類比は一種の発見の方法として用いられ、と同時にその類比において両者はしっかりと結びつけられていく。かくして、プラトンの『ティマイオス』でも語られている数の比の話は、そのはるか後代にいたって、たとえば占星術師マイケル・スコットの『導入の書』(Liber introductorius)などでは、音符を表すアルファベットと天体との一対一のアナロジーにまでいたるのだ、と……。なるほどこれは、(同書全体にも言えそうだけれど)思想史というよりはそれを下支えするパースペクティブ、思惟の構造といったものを抽出しようという研究らしい。