先日、リドリー・スコットの『ロビン・フッド』(主演ラッセル・クロウ、2010年)を見た。ロビン・フッド伝説が生まれるまでの話ということで、12世紀を舞台として(本当はもっと古い話だったと思うけれど、ま、それはそれでよしとしよう)描いた歴史スペクタクル。あまり期待していなかったのだけれど、結構引き込まれた。なかなかうまい展開と丁寧な描き方。テレビでやっていた『大聖堂』もそうだけれど、リドリー・スコットがこのところ中世志向なのでとても嬉しい(笑)。ま、それはさておき。
この映画では、なにやらノルマンディーを中世に置き換えたかのような、仏軍上陸作戦をロビンたちが迎え撃つ戦闘がクライマックスになっている。そこに、父の敵を討とうとするマリアンが騎士の恰好で紛れ込んでいる。甲冑はどこから調達したのかしら、なんて野暮な疑問はともかく(笑)、女性が戦に参加するというのが実際どの程度あったのかしらなんて思っていたら、なんとタイムリーにとある論文が紹介されていた。ジェームズ・M・ブライス「軍の中の女性:女性兵士についてのスコラ的議論と中世のイメージ」というもの(James M. Blythe, ‘WOMEN IN THE MILITARY: SCHOLASTIC ARGUMENTS AND MEDIEVAL IMAGES OF FEMALE WARRIORS’ in “HISTORY OF POLITICAL THOUGHT”. Vol. XXII. No. 2. Summer 2001 PDFはこちら)。軍事行動への女性の参加は結構いろいろな言及があるようで、もちろん中には神話的・伝説的なものもあるようだけれど(アキテーヌのエレアノール率いる女性の一行がアマゾネスの恰好で白馬に乗り、1147年の第二回十字軍への従軍を誓いにヴェズレーに来た、なんて話もあるのだそうで)、一方で相続関係で領主となった女性が従軍するというケースは(実際に戦闘に参加したかどうかはともかく)結構あったらしい。で、こうした女性の従軍について、当時の神学者たちも、さほど多くはないらしいがその是非を論じていたりするという。ベースとなっているのはやはりアリストテレスの議論だ。
アリストテレスは『政治学』の中でプラトンの『国家』を部分的に要約していて、そこには女性も男性と対等の諸活動に参加させるべきだとの考え方が示されている。『政治学』は1260年頃にはラテン語訳が出ているといい、たとえばアルベルトゥス・マグヌスなどは、男女の間で共有すべきは軍事教育にとどまらず、むしろ教育全般だということをアリストテレスが語っている、ということをちゃんと理解していたという。ところが時代が少しばかり下ったエギディウス・ロマヌスになると、女性が本来持つ特性(判断力、勇敢さ、身体的能力)は戦闘に適していないという議論を、アリストテレスをもとに展開しているのだという。さらにルッカのプトレマイウス(バルソロミュー)は、そうした議論をより精緻化して示しているらしい。このあたりの詳述が同論文のクライマックスなのだけれど、なるほどこれはある意味女性蔑視的な議論にも取れるし、と同時にある意味での適材適所的な考え方を進めたものという感じもあって、このあたりの両義性がなにやら際立って見える。神は女性を弱い者、資質を欠いた者として創造したが、それは女性に与えられた役割を果たすためだった、というのが中世の女性性をめぐる基本的な考え方だったというが、スコラ学のそうした理想主義的議論と、現実の社会における女性の軍事行動への参加という現実との落差が、これまたなにやらとても印象的に映る。
↓wikipedia(en) より、1450年から1500年頃に描かれたジャンヌ・ダルクのミニアチュール