老親を引き取って一ヶ月以上が経つが、認知症による異常行動にはいろいろ唖然とさせられる。それらへの対応やケアはなかなかに大変なのだけれど、それについてはまたそのうち改めて考察するとして、とりあえずタイムリーな感じで「老人」をめぐる中世のトポスについて考察した論文が紹介されていたので、さっそく読んでみた。マイケル・グディッチ「中世後期における高齢者の美徳と悪」(Michael Goodich、’The virtues and vices of old people in the late middle ages’ in International Journal of Aging and Human Development, Vol.30:2 (1990))というもの。経済的・文化的繁栄や人口増加が見られた13世紀には、寿命の延びと相まって老齢期への関心が高まっていく(もちろん、幼児期、青年期などのその他の人生の諸段階についても同様なのだが)。こうして老齢期をほかにない人生の一段階とする見方が広まったという。当然その評価も、肯定的な部分と否定的な部分とに分かれるわけだけれど、そうしたことを記している文献の数々は、基本的に古典やアラブ、キリスト教的文献などからの引用によって構成されているのだという。まさに老いをめぐるトポス(定型表現)が成立しているというわけだ。
キケロの『老いについて』はすでに中世に伝えられていたというが、そうした引用もととしてより一般的に使われていたのは、「フロリレギア(florilegia」と呼ばれるハンディな引用集、セビリヤのイシドルスの『語源論』ほかの辞典類、聖書の用語索引集などだったらしい。老いについて考える際の説明原理は、11世紀以降にアラブの文献を通じて伝えられたガレノスの四気質説に、また老化対策はアリストテレス的な中庸理論に見出されているという。主な具体的文献としては、ヴァンサン・ド・ボーヴェの『大鑑』、ハリー・アッバス『王の書』、ベルナール・ゴルドン『 健康の維持について』、キプリアヌス、教皇イノケンティウス3世『世界の瞑想について』、ダンテ『饗宴』、エギディウス・ロマヌス『第一原理について』などなど。ダンテが老年の気前の良さを称揚し、エギディウスがそのけちくささを示しているなど、論者によってトーンが違うのは、それぞれが引用する典拠が違っているせいなのだという。なるほど、こういうのはまとめるのは大変そうだけれど、とても面白そうではある。
↓wikipedia(jp)より、キケロの胸像(ローマ、カピトリーニ博物館)