前回の「非存在主義」とかビュリダンの話にも関連するのだけれど、スコトゥスによる「名称論」に関する論考があるというので早速覗いてみているところ。ジョルジョ・ピニ「ドゥンス・スコトゥスおよび一部同時代人らにおける名前の意味」というもの(Giorgio Pini (2001) Signication of Names in Duns Scotus and Some of His Contemporaries, Vivarium, 39(1), p.20-51.)(PDFはこちらに)。とりあえず前半だけ。ものの名称は一体何を表しているのかという問題は、13世紀ごろ盛んに議論された問題。なにしろそこには認識論(というか、またしてもスペキエス問題)が絡み、やや複雑な様相となっている。同論考では、アリストテレスの『解釈について』の注釈でその義論に参戦したドゥンス・スコトゥスによる整理を追いながら、スコトゥス自身の立場を明らかにしようとする。当時の議論としては、(1)名称が一義的に表すのは知的スペキエス(可知的形象)であるという立場と、いやいや(2)外部の事物そのものであるという立場に分かれ、この後者はさらに、(2a)そこで名称が意味するのは外部世界の個物だという立場と、(2b)そうではなく理解・認識される限りでの事物の本質なのだという立場に分かれるという。13世紀前半はスペキエス論寄りの(1)が優勢らしいのだけれど、トマス以降は(2b)などにシフトしている模様。ただ、理解・認識をどう捉えるかによっては、これは(1)のスペキエス理論にかなり接近してしまう場合もあるようだ。スコトゥスはどうかというと、どれを支持するのか微妙に曖昧で、アリストテレスの正確な解釈としては(1)が、けれども全般的な議論としては(2)、とりわけ(2b)(?)が優れているといった立ち位置らしい。
スコトゥスが(2)に傾くのは、外部世界の事物の消滅後も名称はその事物を表し続けるのかという問題(「空の名前」議論)、あるいは固有名、およびフィクションもしくはキメラなどの虚構物が名前で意味されるのはどう説明されるのかという問題において、スペキエス理論がうまく説明をつけられないからだという。このあたりはまさに非存在主義のお得意とする話だ(笑)。とはいえ、この2bにも問題はあって、この考え方では事物にまつわる真偽判断の際に引き合いに出される属性が、当の事物の属性とはならず、思考される内部世界での属性にしかならないことになってしまう。13世紀末から14世紀初めに活躍したフェヴァーシャムのシモンや、ブラバンのシゲルスなどは、ここから修正的議論として「名前が示すのは事物の本質それ自体である」という説を唱え、スコトゥスの弟子にあたるアンドレアのアントニウスなどもシモンの説を支持しているのだそうだ。スコトゥスはそこまではいっていないのだとか……。
この論考はまだ読みかけなので、この話も続くかも(笑)。