再びヘンリクス研。ヘントのヘンリクスは「実在的存在(esse existentiae)と「認識的存在(esse cognitum)」のほかに、「本質的存在(esse esentiae)」を区別しているというのだけれど、この表現のせいか、ここにあらぬ誤解があったのではないか、というリチャード・クロスの論文をざっと眺めてみた(プリント版をちゃんと読んだわけではなく、怪しげで読みにくいOCRのテキスト(?)を文字通り眺めただけ(苦笑)。これ、著作権的に難あり?)。モノは「ヘントのヘンリクスによる非在の可能態の現実性−再考」という結構新しい論文(Richard Cross, Henry of Ghent on the Reality of Non-Existing Possibles – Revisited, in Archiv für Geschichte der Philosophie, Vol. 92(2), 2010)。ここで誤解だとされているのは、ヘンリクスが本質的存在という概念でもって、知性的な理解の中だけに存在する事物と、外界に実際に存在する事物との中間にあたる、第三の存在(神の知性に存在し、実在にはいたっていないもの)を想定しているという解釈だ。たとえばジョン・F・ウィップルの81年の論文などは、ヘンリクスの第9自由討論の最初の2つの問いを用いて、この解釈を練り上げている。ヘンリクスは、神は事物の形相因でも作用因でもあるとして、前者が本質的存在、後者が実在的存在を導くとしている。被造物は神の知性において「対象として」思い描かれるので、いわば神とのある種の関係性をもっている。で、そこには可能性として思い描かれながらもいまだ実在として個別化してはいないものも含まれる。ここから、神の知性における事物のあり方を本質的存在と称するなら、そうした非在の可能態も、ある種の「外在する可能態」としての地位にあるという解釈が成り立つ。これはまさに非在物も含めた第三の存在様式ではないか、と。
で、実はこれ、ヘンリクスを批判的に取り上げたドゥンス・スコトゥス以来、いわば伝統的解釈となって長い系譜を誇っている見識なのだそうだ。スコトゥスはそのように解釈されたヘンリクスの議論に対して、かかる本質的存在は、結局個別化された実在する事物にしか存在せず、中間態などないと批判しているらしい。けれども、そもそもそうしたヘンリクス解釈自体は間違いだと論文著者のクロスは述べる。ヘンリクスは純粋に神の知性の中での存在として本質的存在という言葉を用いているのではないか、本質的存在とはあくまで原因(形相因または作用因)としての神との関係性にほかならず、そこに存在論的な契機はないのではないか、というわけだ。うーん、個人的にはまだその議論の是非を問える立場にはないのだけれど(ヘンリクスの原テキストもちゃんと見ていないし……)、いずれにしてもそうした別様の解釈(スコトゥス的でない解釈)にも若干の前例があるようで、それまた些細ながら系譜をなしているらしく、このあたりはなかなかに興味深い。ちゃんと検証してみたいところ。問題になっているのがやはり神学的な解釈・議論であることにも改めて注目しよう(笑)。