スティーヴン・マローネ「ゲントのヘンリクスとドゥンス・スコトゥスの存在認識論」(Steven P. Marrone, Henry of Ghent and Duns Scotus on the Knowledge of Being, Speculum, Vol.63 No.1, 1988, pp.22-57)の前半(主にヘンリクスを扱った部分)に簡単に目を通す。これ、ジルソンやベットーニが練り上げたヘンリクスとスコトゥスの対立関係を相対化しようという試みの一つらしく、照明説を挟んでの両者の関係を再検討しようとしている。
アウグスティヌス主義の照明説は、ボナヴェントゥラ(やペッカム、アクアスパルタ)の素朴な立場を別にすると、大きく三つの議論から成る。神の光は(1)人間の認識の確実性を保証する、(2)普遍の真理を人間が知ることができる、(3)魂が神のもとへと向かう道筋を描く(神を認識する)、といった議論だ。ヘンリクスはそのうち少なくとも(1)と(3)は区別して考える必要があるとし、(1)では神は認識の手段をもたらしているのに対して、(2)では手段と同時に認識の対象(としての神)をも設定していると捉えている。そしてこの(1)について、スコトゥスが批判を加えるのだという。つまりヘンリクスの手段としての神の光という議論では、人間が本性的に真理を知るという可能性が排除されてしまうほか、認識の必然という避けるべき議論が温存されてしまうということになる。こうしてスコトゥスは(1)を斥けるのだけれど、結果的にこの照明説全体を斥けているような印象にもなった。けれどもそうなると、(3)の神の認識を担保するものがなくなってしまう。この穴を埋めるためにスコトゥスが持ち出してくるのが、存在概念の一義性という議論で、そこでは被造物の知識から引き出された存在概念が、神に対しても適用されうることになり、人間は神をも知の対象に据えることができるようになる……。
とまあ、これがジルソンとベットーニによるヘンリクスとスコトゥスの関係の一端だというわけだが、論文著者はその影響関係をもっと複雑で微妙なものだと論じていく。人間がもつ神の概念の生得性、ヘンリクスの上の(1)と(3)の区別の詳細、ヘンリクスの思想的変遷など、吟味し直すべき課題は多いとされ、結果的にヘンリクスとスコトゥスの議論がパラレルであることが見過ごされているとしている。スコトゥスの主張の多くが意外にヘンリクスに根を持っている、というわけだ。著者はヘンリクスの思想的変遷を視野に入れながらアプローチしていくのだけれど、それによると、ヘンリクスの照明説は後年にいたるほど縮小していき、むしろアリストテレス的というか、スコトゥス的な方向性を歩み出していくのだという。で、上のスコトゥスのように、ヘンリクスも自説の変化の「穴埋め」をしなくてはならなくなったのではないか、スコトゥス以前に、すでにして「存在としての神」を被造物の存在から出発してアクセスする方途を探っていたのではないか、という話になっていく。とはいえ、そこには当時一般に受け入れられていた存在のアナロギアの議論が立ちふさがり、アクセスを阻んでいる。これを乗り越えるべく、ヘンリクスが持ち出すのが、前回も出てきた「中間的な存在」、本質的存在の議論なのだという。本質というレベルは神の中にあり、したがってあらゆる本質は神的なアクセスをおのずと含んでいるのだ、と……。うーむ、個人的にヘンリクスの神の存在証明については以前少しだけ囓ったことがあるのだけれど、こういう議論を見たからには、それを念頭に見直してみるのも面白いかも。そのうちぜひ行おう。