天使論の二つの流れ

以前読んだオリヴィ論がなかなか面白かったシルヴァン・ピロンの「天上の位階を脱プラトン化する:オリヴィによる偽ディオニュシオス解釈」(Sylvain Piron, Deplatonising the Celestial Hierarchy.- Peter John Olivi’s interpretation of the Pseudo-Dionysius, in Angels in Medieval Philosophy Inquiry. Their Function and Significance, Isabel Iribarren, Martin Lenz (Ed.) (2008) 29-44)という論文が、ほんの数日前に紹介されていたのでさっそく目を通してみる。一般に西欧中世での天使像というのは、ギリシア=アラビア系の哲学的伝統とユダヤ=キリスト教の啓示とが混じり合って形成されているといわれる。つまり、前者は天使を知的な実体として描き出すのに対し、後者は霊的な被造物とし、地上世界の出来事に干渉すると考えている。で、両者は安寧に融合しているわけではなく、一種独特の緊張状態を保っているとされる。そもそもそうした異質なもの同士が同じ「天使」の名に収まっていること自体が奇妙な感じもするが(笑)、いずれにせよその対立関係は、中世盛期においても何人かの論者たちの議論の中で強調されていたのだという。で、その一人がペトルス・ヨハネス・オリヴィだというわけだ。

13世紀において、たとえばトマスなどは天使を離在的な知性として取り上げている(天使についての古来の知識は、信仰に反しない限り受け入れるという立場)。けれども、オリヴィはこれを、神学的議論の中でギリシア哲学が濫用され、神と人間との仲介役が無意味に複数化する事態だと見なし、黙っていられなかったらしい。これはちょうど、タンピエの1277年の禁令の批判的立場ともパラレルなのだけれど、興味深いのは、まったく立場を異にするアルベルトゥス・マグナスが、同じように天使を離在的知性と同一することに否定的だった点。もちろんオリヴィとアルベルトゥスでは哲学の捉え方などはまったく異なり、アルベルトゥスは哲学の独立性を守るために天使と知性とを区別したのに対し、オリヴィのほうは聖書的な天使の記述の純度を高めることに腐心していた……。

で、オリヴィにはそうした立場からの偽ディオニュシオス(アレオパギテス)『天上位階論』への注釈書があり、同論考はこれについていくつかのポイントを挙げて詳述していく。オリヴィは全体として、天上位階論をあくまで神学の書として扱い(自然哲学の書ではなく)、天使の位階を神と人との間に横たわる溝を埋める知性や霊的存在の階層と考えるのではなく、むしろ恩寵の配分の位階なのだと解釈する。面白いのは、その解釈においては天使と人間の魂は厳密にはほぼ同等だというオリヴィの考え。天使は神と人とを仲介(新プラトン主義的に)するのではなく、真の仲介者はキリストただ一人だとして、天使はむしろその最上の魂(キリスト)によって新たな神性を纏うのだとされる。論文の表題に言う「脱プラトン化」というのはそのあたりの話。異教的な議論を純化すべく捌いていくオリヴィの奮闘振りが、参照される断片からも伝わってくる感じがする。