再びパウルス本(Jean Paulus, Henri de Gand, essai sur les tendances de sa métaphysique, Vrin, 1938)から、とりあえず二章まで。「本質的存在(esse essentiae)」を神の知性にある本質の状態とするリチャード・クロスの解釈だけれど、パウルスはすでにしてそのことを押さえた上で、人間知性におけるその位置づけを改めて考えているようだ。まず一章の末尾部分では、認識論的な議論を検討する中で、神の知性の話が出てくる。ヘンリクスの唱える内在論(認識というものは内的な、概念的内容の認識から始まるとするもの)では、人間の知性は神の知性とパラレル(類比的)だとされる。神の知性がまずはおのれ自身を思惟する(発出論的に?)のと同様に、人間知性もまずは神そのものの概念をおぼろげに把握するところから始める、と。で、その概念というのは当然ながら「存在」概念ということになり、ここから話は一気に形而上学のほうへと移っていく(二章)。
神の創造と「存在」はどういう関係を取り結ぶのか。この問題に、ヘンリクスはアヴィセンナから継承した「本質的存在」(アヴィセンナは、本質そのものは外界での実在や概念としての理解といった諸条件から独立していると考えていた)をもって応答する。本質的存在をともなう絶対的本質(essentia absoluta:本質そのもの)を、神の知性の中に可能性として存在する知解対象であるとし、それが創造行為(神の意志による)によって実在にいたらしめられたものが現実の事物だと考えるわけだ。で、人間知性の場合もそのパラレルな関係から、まずは本質を直観的に把握するとされ、その場合の本質というのは上の絶対的本質の特徴をもっていて、ゆえに本質的存在をも備えている、と……。
パウルスはこのあたりのことを丁寧に細かく論述していくわけだけれど、その過程でいろいろ興味深い指摘がなされている。たとえばヘンリクスはアヴィセンナからもとの着想を受け継いでいるとはいえ、いわゆる発出論を削除しているとか、ある意味でスコトゥスはヘンリクス以上に新プラトン主義的だとか、あるいはヘンリクスのこうした考え方がアルベルトゥス・マグヌスの新プラトン主義的な議論に類似しているとか。このアルベルトゥスとの関連で一つ気になるのは、アヴィセンナ絡みの話はともかく、アヴェロエスの影響はどうなのか、という点。メルマガでもちょっと前に見たけれど、アヴェロエスはフランシスコ会派の思想家らにも、明示されないまでも影響を与えているような印象。とするなら、ヘンリクスもまたそれらの思想家に関連しているわけなのだから、それなりに影響を被っているのではと考えるのが順当な気がする。このあたり、要検討だ。