正月休みということで、遅ればせながらの積ん読ものにいろいろ目を通しているところ。その一つが昨年刊行された西山雄二『哲学への権利』(勁草書房、2011)。デリダほかが創設した、「国際哲学コレージュ」といういかにもフランスらしい半ば制度的・半ば非制度的な機関をめぐるインタビューを映像作品としてまとめ、それにより大学制度の危機や、人文知の危機を逆照射しようという映像と書籍の複合的な作品。映像作品のほうは各地の大学その他の会場で、ほぼ必ずディスカッションを伴う形で上映されてきた。この「ディスカッションを伴う」という点がきわめて重要だったのかも。というのも、映像作品だけを見る限り、インタビューイーがいずれも国際哲学コレージュの関係者であるせいか、また、ある種のフランス知識人に特有の語りのスタイルのせいか、理念の称揚も問題点の指摘も結局はトーンが似通っている感じで、どこかのっぺりとした印象になってしまう気がするからだ。「他者」(非関係者など)からの「批判」(関係者が自家薬籠中のものとしていない外部からの見識)をも取り込んでほしかったような気がする、と。おそらくそのあたりを良い意味で埋めていたのが、上映後のそうしたディスカッションだったのだろうと想像する。で、実際、書籍はそのあたりをも多少とも意識している感じで、各章のコラムが映像作品を補完し、全体としての厚みを大いに増している印象だ。うーむ、それにしてもこの「国際哲学コレージュ」のような組織、日本では前提条件が違いすぎてほとんど無理と思えるのがなんとも残念。高校の教師とかがプログラムディレクターになると授業負担が半減されるなどの制度的なバックアップがあり(もっともこれは2009年のダルコス教育相の改革で一部を除き撤廃されてしまったようだが)、しかも関係官庁が補助金まで出していたというのだから……。