モナドが見る夢

これは結構面白いものを見せてもらった。東大駒場で昨日まで開催されていたパネル展示「ムネモシュネ・アトラス展」。アビ・ヴァールブルクが晩年に取り組んだ図像のクリップによる一大パノラマ(未完)を、現存する写真を引き延ばす形で再現しようという試みだ。春ごろにヴァールブルク著作集の別巻で出た解説本に関連してのイベントらしい。白黒写真での展示なのだけれど、黒の背景に浮かび上がる無数の画像のクリップは、これだけデカイと、すでにしてある種の没入感を促してくる気がする……ま、会場全体が明るいせいか、「没入」とまではいかず、あくまで兆し程度にとどまりはするのだけれど(笑)。いずれにしてもそれは、記憶の内部に浮かび上がる一種の内面的クンストカマー/ヴンダーカマー、という感じだ。

ちょうどホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』(原研二訳、産業図書)を読んでいたのだけれど(同じ訳者で『芸術家ガリレオ・ガリレイ−−月・太陽・手』が刊行されたばかり。そちらも楽しみだ)、これの冒頭すぐのところに(p.15)、ライプニッツにおける精神的実体としてのモナド(あらゆる<私>)は肉体と魂の現象的な一体性からすると「窓を持っている」、というフッサールの発言(遺稿)と、それを追認するかのように、モナドは「時代の選択的欲望との接触を果たす」とするヴァールブルクの発言が紹介されている。なるほど、そこからするとヴァールブルクのアトラスは、モナドが見る夢のようなものなのかもしれない……。同書はライプニッツが夢想した「自然と人工の劇場」を、クンストカマーやそこで扱われる展示物、劇場空間など、同時代的な様々な着想源から描き出そうとしているのだけれど、そのような「自然と人工の劇場」の上位概念として、ライプニッツが「普遍アトラス」を考えていたことも示されている。で、これが図版のアーカイブ化初の普遍システムだったといい(p.185)、そこでのリストアップを貫く考え方は「図像は見えないものを見えるようにすることができるという定式」(p.189)なのだという。お〜、これぞまさしくムネモシュネ・アトラスと通底・照応する考え方。ライプニッツのアトラスが近代的な諸々の「遊び」を経てたどりついた末の、ある種の内面化ないしは純化としてヴァールブルクのアトラス、というふうに見立てることもできるかもしれない。ついでながらこういうアトラスは、見たり解釈するだけでなく、自前で作ってみたらまた面白そうでもある(実際、展示でもその後のシンポジウムの発表でも、そうした実作があった)。