ベルナール・ジョリ『デカルトと化学』(Bernard Joly, Descartes et la chimie, Vrin, 2011)を一通り読んでみた。デカルトが化学をあまり正面切って扱っていないことはよく知られている。17世紀当時、化学は錬金術とかなりオーバーラップしているわけだけれど、それらをデカルトは世迷い事の類として片づけていたことは比較的よく知られている。ところが一方で、デカルトは化学の実験がもたらす結果について少なからぬ関心を示していたという。書簡などからそのことがわかるのだそうだ。挫折こそしたもののみずから実験に手を染めようともしていたという。そんなわけで同書は、デカルトの化学に対する両義的な姿勢について、主に主著の『哲学原理』を丹念に読みつつ検証していく。丁寧な著作ではあると思うのだけれど、なんというか、そこから導かれる結論はそれほど意外なものではない。粒子論を考え、それら粒子の運動として諸現象を考えていたデカルトは、たとえば火をそれ自体元素とは認めず、物質のある状態だとするなど、確かにそれまでのアリストテレス的なものの見方からの大きな乖離を体現してはいた。当時「流行っていた」化学に対しては、説明としての学知の体をなしていない、虚構にすぎないなどとして一蹴し、化学が扱う対象(塩酸とアルカリ酸の反応など)をも粒子論・機械論的還元を通してみずからの体系に位置づけようとしていた。化学はデカルトにとって、自説の事例を汲み取るための「実験の貯蔵場所」でしかなかったという。
面白いのは、そうした化学への批判がデカルト自身の体系にもブーメランのように舞い戻ってくるというあたりの話。デカルトは自然学的な諸現象の説明(『哲学原理』の三巻以降)に際して、様々な仮説を積み重ねていくわけだけれど、その根底が虚構であることを自覚しているといい、化学を虚構扱いするその批判は本人の体系にも向けられうるという危うさを孕んでいる、というわけだ。ライプニッツや少し遅れた時代のヴォルテールなどがそのあたりを突いているという。著者が指摘しているように、ヤン・バプティスト・ウェーニクスによるデカルトの肖像画で、デカルトが持っている書に「mundus est fabula(世界は寓話だ)」と書かれているのは示唆的だ。