久々に魂論がらみの哲学史的論考を読む。マーティン・トゥイーデイル「知覚は形象の非物質的受容だとする中世の理論の起源」(Martin M. Tweedale, Origins of the Medieval Theory That Sensation Is an Immaterial Reception of a Form, Philosophical Topics, vol.20, 1992)(PDFはこちら)というもの。これはなかなか刺激的な論文。トマス・アクィナスによると知覚とは、質料を伴わない形相を感覚器官を通じて魂が受け取ることだとされる。というか、少なくとも一般にはそう思われているけれど、実はトマスのこの論には曖昧な部分があって、魂が形相を受け取ることを知覚とする一方で、感覚器官が受け取る感覚的な形相が「非物質的に」存在することも否定してはいない。『神学大全』(問14、78、82)では、形相の認識(魂の働き)とその形相が非物質的に存在することとはイコールとされているのだけれど、『霊魂論註解』では、感覚的形相は感覚器官にも媒質にも存在できるとされているという(これはシェルドン・コーエンの議論がベースだという)。この「矛盾」について、実はそれが、トマスの前から綿々と営まれてきた逍遙学派のアリストテレス解釈の伝統に由来するものなのではないか、というのがこの論考の主旨となる。そんなわけで論文著者は、トマスから順に註解の伝統を遡っていこうとする。
まずはトマスへの直接的な影響関係だ。師とされるアルベルトゥス・マグヌスの場合、知覚には感覚器官が外部の形象を受動的に受け取るだけではなく、「共通感覚」の器官(?)による能動的な判断・意図が必要だとする(非アリストテレス的な)議論があるという(ローレンス・ディーワンの解釈なのだとか)。知覚する本体を目や耳といった個別の感覚器官よりもより内部に(とはいえ身体に)設定しているという。これに対し、アヴェロエスは意図・判断は魂にしかないとし、形相は魂の感覚機能にのみ非物質的に存在するとしていた。そんなわけでトマスはおの両者を結びつけようとして泥沼にはまったのではないか、という。
トマスへの直接的な影響関係はとりあえずそこまでなのだけれど、論文著者はさらに類似の議論をアリストテレス註解の伝統に探っていく。まずシンプリキオスは魂について二つの概念があるとする。一つは身体の生命をささえる機能としての魂、もう一つは身体を動かし使う実体としての魂。そして知覚は後者の概念での魂で生じるとされる。ヨハネス・フィロポノスは、身体は形相と質料の両方の影響を受けるものの、感覚機能(魂の)は形相のみを受けつけるとする。テミスティオスは感覚器官が感覚対象の形象に対する質料の役割を果たし、対象のもとの質料なしで対象を受けつけるときに知覚が生じるとする。テミスティオスはトマスに近いと著者は記していて、トマスが『霊魂論注解』を執筆していたころ(1267年ごろ)にメルベケ訳を通じてテミスティオスを読んでいたことも指摘しいてる。アフロディシアスのアレクサンドロスは、感覚器官において感覚対象が同化されるプロセスが知覚だとするものの、感覚器官が質料として対象の形相と結びつくのではないとしている。それぞれの立場が多様なのが興味深いが、知覚がどこで生じるかでまとめると、フィロポノス、シンプリキウス、アヴェロエスが魂寄りの解釈、アレクサンドロス(とアルベルトゥス)が感覚器官寄り、中間的なのがテミスティオスという腑分けだ。
その上で著者は、もとのアリストテレスのテキストに戻ってみる。そこで強調されているのは、むしろそれぞれの感覚器官が、対象のもつ特定の性質にのみ選択的に反応する点だという。註解者たちが言うような対象全体の話などしていないと指摘する。つまり全員がそれぞれもとの意図を把握しそびれているという格好だ。知覚全体についてアリストテレスは魂と感覚器官の複合体を考えていて、知覚という運動は器官で生じるものの、魂において終端にいたるという構図になっているのではないか、というのが論文著者が考える本来の議論。この最後の部分で、論考でそれまで取り上げた論者全体がばっさり批判されているのがなかなか爽快かもしれない(苦笑)。