連休の前半ということもあって、積ん読から村上勝三『デカルト形而上学の成立』(講談社学術文庫、2012)を眺めてみた。これは久々に読む本格的な哲学論考。初版は90年だという。1630年の四つの書簡から『省察』にいたるまでのデカルトの思想的歩みを、文章に即して緻密に追っていくといういわば王道の研究書。記述はある種の迫力というか緊張感を湛えていて、読む側をどんどん引き込んでいってしまう。原文に丹念に寄り添い、デカルトのテキストが何を語り、何を語っていないかを切り分けて、その語っていない部分はそのままに、語っている部分をあるがままに見極めようとする手触り感がすごい。たとえば『方法序説』「第4部」の、神の実在と「一般規則」のあたりの話。「橋が見出されない、否、橋が見出されるようには書かれていないこの場所で、橋を見出そう、デカルトの述べるところを踏み越えても橋を架けようとすることに分はあるまい」(p.147)。その上で、デカルトのテキストからその思考の歩みのようなものが再構築されていく。「神についての認識なしには強力な「一般規則」も保証されない。真理を語り出す場を手に入れることができない。神の認識の内容と重要性こそ、デカルトがここで説いて聞かせようとしていることなのである」(同)。あえてこの渾身の読みに補助線を引くことができるとしたら、おそらくその一つは、デカルトが前提としていたであろう同時代的な様々な知識(もちろんそれらも再構成されたものとしての、だけれど)への目配せではないかということを強く感じもする。テキストから浮かび上がるデカルトの思考の歩みは、そうした補助線を引くことでさらに鮮明になっていくのではないか。とまあ、そんなことを考える連休の狭間のなか日……。