つい最近文庫として復刊した堀米庸三『正統と異端−−ヨーロッパ精神の底流』(中公文庫)を読んで、久々にグレゴリウス改革がらみの話、とりわけペトルス・ダミアニの秘蹟論争周りについての話を堪能した。初版は1964年刊(の新書)だというが、今なお実に読ませる一冊。個人的に、ペトルスについては瀬戸一夫『時間の政治史』(岩波書店、2001)などでその重要性を聞き知っていただけという程度でしかないのだが、改めてその人物像も興味深く思えてくる。ペトルスは幼少期の孤児としての体験などから、世俗世界に対するある種の憎しみを抱いている、などとも言われ、修道院改革に邁進するその姿を、いわばある種の厳格主義・理想主義者のようなイメージで描かれたりもするようなのだけれど、『正統と異端』でも、フンベルトゥス枢機卿との叙任論争において、伝統遵守をつらぬく「最右翼」として描かれている。
ペトルスとフンベルトゥスとの見解が分かれるのは、聖職売買(シモニア)によって聖職者になった者(シモニスト)から無償で(シモニアなしで)聖職を受けたとき(叙品されたとき)、それはどうなるのかという問題をめぐってだったという。ペトルスは、「不法だが有効」とする正統教義を継承する形で、「異端者によって洗礼されたものが再洗礼されるべきないことと同様に、シモニストによって叙任された者が位を追われたり再叙品されたりする必要もない」といった論を展開する。一方のフンベルトゥスは、シモニストはシモニストであるがゆえに教会の外にある者であり、ゆえにシモニストの秘蹟は無効であるとし、さらに正統教義との整合性を図るためにかなり「特殊な論法」を用い、教会外叙品などというものはそもそもないとして、再叙品の禁止という教義を迂回してみせる。これはちょうど、棄教・背教した者の秘蹟は無効で、再洗礼が必要と主張し異端とされたドナトゥス派(ドナティスト)の教義に重なり合う立場(ゆえにフンベルトゥスは最左翼とされている)で、対するペトルスは、ドナトゥス派に反駁を加えたアウグスティヌスの立場に重なり合う。ペトルスはシモニストを教会外の者とは考えておらず、異端とも見なしていないという(当時の基準からすれば、異端とはマニ教などを指していた)。「教会内執行」であれば、秘蹟の執行は有効だと考えているというのだ。とはいえ、その場合の「教会」というのは抽象的な意味で、カトリック信仰ほどの意味でしかないと同書は記している。それはどこか、厳格主義・理想主義的なペトルスのイメージに通底する読みだとも言えそうではある(かな?)
ところが、より最近ものだけれど、そうしたイメージと少し違った描き方をするものも出ているようだ。たとえばエンマ・ナイト「叙任論争とは何をめぐる論争だったのか」という論文(Emma Knight, What was the Investiture Controversy a controversy about ?, Durham University, Department o f Politics, 2005)では、ペトルスはより実利的・現実的な対応をしたのだという解釈を示している。当時のシモニアはあまりに多く、一方でそれまでシモニアを封じる対策がほとんど取られてこなかったという事情もあり、ペトルスは、再叙品の選択は非現実的で、また教会にとって害の方が大きいと判断したというのだ。さもないと司教が行う叙品そのものに支障をきたすようになってしまうし、叙品された聖職者も足りなくなってしまうからだ。さらに同論文は、ペトルスの著作は世俗の権力の役割や重要性を思慮深く省察しているとも述べている。うーん、理想を求める厳格主義者か、リアルポリティクスを重んじる実利派か。ペトルスの評価はここへきてなにやら両義的なものになってしまう……(?)。