ジョルダーノ・ブルーノによるアリストテレス批判の鮮烈さを確認すべく、『無限、宇宙および諸世界について』(清水純一訳、岩波文庫)をざっと読み。確かにこの対話篇、アリストテレス的な世界観への波状攻撃的な批判が繰り返されてなんとも面白いのだが(笑)、その核となっている考え方は何かというと、それは無限概念の空間への拡張ということに尽きる気がする。同心円的で(つきつめれば)閉ざされた空間像の代わりに、世界は無限に開かれているという空間像を据えると、そこから中心なるものはどこにもない(あるいはいたるところが中心となる)ことになり、「地球は宇宙の中心をなしてはおらず、そう見えるのは錯覚でしかなく、動いているのは天球ではなくて地球のほうだ」というコペルニクス的なスタンスへとシフトしてくことにもなる。巻末の訳者解説によれば、コペルニクスは地球中心説を太陽中心説に置き換えただけなのに対し、ブルーノの考え方はコペルニクスよりも先に進んでいたのだという。「地球中心の絶対視が実は相対的な一臆見に過ぎぬことを暴露」できるとブルーノは考えていたからだというのだ。ネットで読めるウォーン・ホリスター「ジョルダーノ・ブルーノと無限宇宙」という文章(Warrn Hollister, Giordano Bruno and the Infinite Universe)などは、「ブルーノとともに相対主義は始まる」とまで言い切っている。
さて、そうなるとブルーノの無限概念について何がソースとなっているのかが気になるところ。研究の歴史も長いブルーノだけに、いろいろな検討がなされているものと思われるけれど、ネットに転がっている文章として比較的まとまっている(?)ものに、マルコス・セザール・ダンホニ・ネーヴェス「広大論、最小論、無限論:ジョルダーノ・ブルーノのミクロかつ無限の宇宙、および近代的コスモロジーの「A中心迷宮」とその哲学的制約」(Marcos Cesar Danhoni Neves, De Imenso, De Minimo and De Infinito: Giordano Bruno’s Micro and Infinite Universe and the “A-centric Labyrinth” of Modern Cosmology and its Philosophical Constraints, Apeiron, vol. 8, No.1, 2001)(PDFはこちら)という論文がある。そこではテーマ別に、ブルーノのソースとなったであろう、あるいは関連するであろう著者たち・議論などが挙げられている。たとえば中心の遍在という議論はもともとクザーヌスにあるとされる(ブルーノの上の本文でも第三対話に、地球を含むすべての星は同様に太陽なのだ、というクザーヌスの話が出てくる)。とはいえ、空間的な無限論そのものはクザーヌスにはなかったはずで、それがどこから出てきたのかは同論考も取り上げていない。また上のブルーノの本文に、地球中心論の臆見のたとえとして、舟に乗って川にいるとき、水の流れや岸などを一切感じなければ、人は自分が舟に乗っているとは思わない、という話が出てくるのだけれど(第三対話)、同論考によれば、これはもともとオレームやビュリダンに出てくる話だという。とはいえ論文著者は、ブルーノが両者の著作を知っていた確証はないとしている。無限と有限の形而上学的関連性という話では、「円の弧が大きくなるにつれて直線に近づく」という話で再度クザーヌスが引き合いに出されてたりもしている。ちなみにこの論考では、清水純一氏がクザーヌスのほかに先駆者として挙げているパリンゲニウスの名は出てきていない(というか、そちらはイエイツによってヘルメティズムの流れに位置づけられ、反面ブルーノの天空論の改革に影響するような要素はないと斥けられている。さらに、無限の空間に無数の世界があるというビジョンはルクレティウスに典拠をもつとイエイツは言っている。このあたりはそれで片づいたということ……なのだろうか?)。