ペルセウス座流星群のピークの日に(笑)、少し古めの論文だけれど、ゴールドステイン&ボウエン「初期ギリシア天文学の新たな視野」(Bernard R. Goldstein, Alan C. Bowen, A New View of Early Greek Astronomny, Isis, vol.74(3), 1983)というのを見てみた。はるか後代のシンプリキオスやゲミノスの示唆にもとづくのではなく、そうした思想的バイアスや後世からの推測を極力排した上で、初期ギリシア天文学の姿を模索しようという論考。著者らはギリシアの天文学史を二つのフェーズに分けることを提案する。最初のフェーズは、恒星や星座の配置を問題にしていた段階で、紀元前5世紀以前を指す。当時はまだ日時や気象現象を星の出入りと関連づけて、暦を作成することが主要な関心事であり、コスモロジーや惑星の運動への科学的関心とは無縁だったという。著者らによれば、紀元2世紀中盤ごろのプトレマイオスが盛んに取り上げられたのと時を同じくして、それ以前のテキスト、とりわけアウトリュコス(前4世紀)以後の文献が失われてしまい、結果的にプトレマイオス以前の天文学者にプトレマイオスの思想、理論的モデルなどを見出そうとする傾向が、研究者の間でも助長されたのだという。著者らはそうした見方を批判し、最初のフェーズはあくまで暦(παράπηγμα)こそが関心の的だったと考えている。そしてその嚆矢となったのは、紀元前5世紀のメトン(メトン周期で知られる)かもしれないという。
紀元前5世紀ごろには日時計や日中の12分割などがバビロニアから伝えられたとされ(本当にそうなのかは検証の余地ありだと著者らは言うが)、その後エウドクソス(紀元前4世紀)から数学的な説明の気運が高まり、これをもって著者らは第二のフェーズの始まりとしている。ピュタゴラスの音楽学(紀元前5世紀)と、ピュタゴラス派やプラトンのコスモロジー的思弁(物理現象の説明というよりは、美的・倫理的秩序を表したものとされる)の影響を受け、エウドクソスは同心円的な惑星の動きを天文学に持ち込み、さらに地球圏と恒星圏に相当する二つの天球というモデルを打ち出したのだという。『ティマイオス』(成立もほぼエウドクソスの文献と同年代とされる)の多層的モデルはあくまでコスモロジー=道徳的理論の伝統に属しているのに対し、エウドクソスの図式(二層モデル)は「星々の出入りを説明したり、地理的研究の枠組みをもたらしたり、より数学的に洗練された日時計を正当化するため」のものだった、と論者らは言う。
エウドクソス以後は、様々な天文学者によってそのモデルの修正や批判がひとしきり行われ、アウトリュコスなどの著名な学者も出ているものの、紀元前3世紀になると、天文学者たちの関心が惑星のモデルから離れ、月・地球・太陽の距離や大きさ、月の満ち欠け、蝕の現象にまつわる研究などへと移っていくという。2世紀のヒッパルコスになると、バビロニアの天文学の諸成果がギリシアにも伝えられ、惑星現象や月蝕の周期について、数値にもとづく予測なども修得しているという。こうしてそれ以前の学問的伝統はいつしか忘れられていくことに……。とまあ、以上がだいだいの論考のメインストリームだけれど、上にあったような後世のモデルを先行する時代に安易に照射することに対する批判は、なんとも耳が痛い思いがする(苦笑)。
↑エウドクソスの肖像画(出典不明)