再びジョルダーノ・ブルーノがらみで、岡本源太「アクタイオンの韻文−−ジョルダーノ・ブルーノとペトラルカ主義の伝統」(『美学』第61巻2号、2010)という論考を読んでみた。アルテミスの裸を偶然見てしまった狩人アクタイオンが鹿に変えられ、猟犬に食い殺されるという神話を、ジョルダーノ・ブルーノが『英雄的狂気』で取り上げているというのだけれど、それが何のためだったかを問い直そうという主旨の論考。ブルーノはアクタイオンの猟犬を思考の比喩として示しているといい、この比喩自体はペトラルカ主義(petrarchism:文学事典的には、ペトラルカの諸作品の文体、とりわけ複雑な文法や言い回し、凝った比喩などを真似るという文学潮流だとされている)に根ざすものなのだそうだ。しかしながらブルーノは、ペトラルカとその追従者たちに批判的だったといい、とりわけペトラルカがメランコリーを讃える点について否定的なのだという。というのは、ブルーノはメランコリーを「黒胆汁による狂気」とし、思慮からはずれた無秩序な行為に走らせる当のものだと考えているからだ、と。報われぬメランコリックな愛の苦悩からの救済として芸術を位置づけるペトラルカやその追従者たちの理屈は、ブルーノに言わせれば「メランコリーによって混乱した思考が生み出す錯覚にすぎない」のだそうな。ではブルーノの理想とはどんなものなのか?論文著者によれば、それは移ろいやすく流転する自然の中で、同じように芸術もまた流転することを認識すること。さらには、流転しながらも万物の同一性が保たれるような無限の宇宙、流転する質料としての宇宙そのものを認識するということなのだという。で、アクタイオンの寓話を語り直したことも、そうした思想に支えられて、ペトラルカ主義者たちに対抗し批判する意図があってのことなのだろう、と結論づけている。
論考の中で、ブルーノの思想全体を「プラトンの質料主義的解釈」と見るという研究が紹介されていて興味深いのだけれど、そのあたりはあらためて見てみたいと思うので、とりあえず脇にどけておくと、この論考でそれ以外で面白いのは、なんといってもブルーノのそうした背景的思想と、ペトラルカ主義での芸術的理想との対比の部分。ペトラルカ主義の中では、文学的営みというのは報われない愛の苦悩を昇華する形で、愛しの人を卓越した永遠の存在へと変貌させることだとされる。なにやら身も蓋もない代償行為のような感じもしないでもないが(笑)、同論文では、この「永遠」への固定化という安直さに対して、ブルーノが流転概念で応戦する構図が示され、なにやら「静」対「動」という様相を呈していて興味をそそる。一方で、思うにペトラルカ主義のそうした昇華のスタイルはトルバドゥールの伝統などにも根ざしているはずで、だとするならそこには(トルバドゥールの場合のように)意図的にそうした不毛な恋愛関係ないし構図を作り上げようとするといった、どこか倒錯的な遊びのような感覚があることも見て取れそうな気がする。ブルーノのペトラルカ主義への批判は思想的背景以前にそれ自体でとても辛辣であることが同論文から窺えるのだけれど、そうした線で考えるならば、批判の激しさはもしかするとそういう倒錯的な遊びの部分をとりわけ糾弾しているのではないかしら、という気さえする。もちろんこれは現段階でのこちらの放言、あるいは俗っぽい感想でしかないのだけれども……(苦笑)。