ルクレティウス復活の裏舞台

スティーブン・グリーンブラット『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(河野純治訳、柏書房)を読んだ。ルクレティウスの『事物の本質について』がルネサンス期に再発見され、それが近代科学の発展に影響を及ぼしたという話を追った書なのだけれど、邦題はちょっとミスリードな気もしないでもない。原著はThe Swerve: How the World Became Modern(逸脱:世界はいかに近代となったか)というタイトル。そのままの題名でもよかったのでは?「一冊がすべてを変えた」というのはキャッチーではあるけれど、さすがにちょっと言い過ぎ、あるいは単純化しすぎという感じ(笑)。でも、中身はそれに反してとてもリッチだ。冒頭、小説仕立てのような感じで「主人公」、つまりルクレティウスの写本の再発見者、ポッジョ・ブラッチョリーニが紹介される。ポッジョの歩みを軸に据えて、当時の人文主義者たちのブックハンティングや生活ぶり、加えて挿話的に修道院文化のおさらいやルクレティウスについての概要、さらにはその源泉となるエピクロスなどを交え、全体の話の流れが複合的に展開していく。このあたりの語り口は実に巧みだ。やがて終盤にいたると、『事物の本質について』がどんな潜在的影響を秘め、実際に教会がどう反応し(原子論を認めてしまうと実体変化の教義が成り立たなくなってしまうetc)、その書を読んでいた人文主義者たちがどう対応したか(いかに中身の直接的な議論を避けていたかetc)といった話になり、その後の近代科学の礎にどうつながっていくのかが語られる。全体に、散らばった数々の話を一本の線でたぐり寄せる(この場合はポッジョの生き様とうわけだが)という手法は鮮やかで、手慣れた書き手であることを思わせる(実際、個人的には知らなかったのだけれど、同著者の邦訳は結構出ているみたい)。個々のディテールなどでもいろいろと面白い指摘が見られた。ただ個人的に、歴史家が一般向けに書く本によく見られる小説風の書き方、つまり地の文で「ポッジョは○○だった」などと断定的に記すやり方は、「講釈師、見てきたような嘘をつき」じゃないけれど、正直あまり好きではない。活写という意味で用いられるのだろうけれど、ときには逆にフィクションの風味によってかえって白けるというか、ある種の興味が削がれることもあるような気がする。そういうのはできれば別の形で実践してほしいように思うのだけれどなあ……。