シモーネ・マルティーニ≪受胎告知≫、1333年面白い研究というものもいろいろある。対象の面白さだったりアプローチの妙だったりと、その面白さの由来も様々だ(あまりにも当然な話だが)。ときには、あまりにストレートすぎることがかえって面白味を生むことも。これもそういうものかな、という論考を目にした。カルボン&ダイニンガーによる「黄金色の知覚:過去の知覚的慣習をシミュレートする」(Claus-Christian Carbon & Pia Deininger, Golden perception: Simulating perceptual habits of the past, i-Perception, volume 4, 2013)。一般に、中世(初期から盛期にかけて?)の絵画表現が古代末期に比べて後退していたというような話が、時にさも当然のように語られることがある。遠近法もないし影すらついていないではないか、というのがその理由だったりする。けれども、もしかするとそれは後世から見た「進歩主義」的なフレーミングのせいかもしれない。実際、ある研究は、中世の絵画は当時の鑑賞上の条件に最も適した技法を凝らして作られている、というポジティブな評価を与えているという。つまりそれらは修道院や教会の、ステンドグラスから注ぐ光、あるいはロウソクの光など、そういう制約の中で眺めることを前提とした絵画なのだから、ほかの環境(日の光のもとなど)ではまったく違うものに見えてしまうのだ、と。なるほど、それなりに一見説得力のありそうな説ではあるけれども、これだけだと極端な話、結局は印象論でしかないということにもなりかねない。ならば、いっそこの説を知覚実験でもって検証してしまえばいいのではないか……。というわけで、上の論考はまさにそういうことをやろうとしている。ちなみに上の説はヴォルフガング・シェーネという美術史家のもの。シェーネによると、中世の画家がキアロスクーネ(明暗法)を用いていないのは、神を光と同義と見るのが当時の宗教的信条としてあり、画家たちは聖書の場面を通じて神の光のイデアもしくは本質を示そうとしていたからだという。中世絵画に描かれる光はみずから輝く光であるともに啓示の光でもあり、そこに影が差すなどという余地はなかった、というのだ。金箔の使用などもそのような文脈で説明される(らしい)。