先の『「誤読」の哲学』に触発されたこともあって、改めてスアレスの『形而上学討論集』から第二書第一部をしばらく眺めていくことにしようかと考えている。同書でもその冒頭の第一節がそのまま訳出されているのだけれど、ここではもっと長めのスパンで見ていくのも面白いかな、と。底本とするのはボンピアーニ刊行の羅伊対訳シリーズの一冊(Francisco Suárez, Disputazioni metafisiche. Testo latino a fronte, a cura di Costantino Esposito, Bompiani, testi a fronte, 2007)。例によって拙い粗訳なので、誤り御免ということで(苦笑)。ちなみに不定期の連載の予定(笑)。今回は上の山内本の訳出部分と重なってしまうけれど、まずは第一節の冒頭からその途中まで。
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第二討論第一部
存在者としての存在者は、私たちの精神のうちに、あらゆる共通存在の形式的概念をもつのかどうか第一節
形相的概念、対象的概念とは何か、またどう異なるのか。まず、形相的概念、対象的概念という一般的な区別を考えなくてはならない。形相的概念とは、知性がなんらかの事物もしくは共通の思惟[communis ratio]を概念として抱く[concipio]拠り所となる作用そのもの、もしくは(同じことだが)言葉を言う。それが「概念」と言われるのは、精神に宿る実のようだからである。さらに「形相的」と称されるのは、それが精神における最終的な形相であるからか、または認識された事物を精神において形相的に表すからか、あるいはそれが実際に精神における概念形成[conceptio mentis]の内的かつ形相的な終端をなすからであり、こういってよければ、そこにおいて対象的概念とは異なるのである。対象的概念とは、形相的概念によってしかるべく、かつ直接的に、認識もしくは表される事物ないしは思惟を言う。たとえば、私たちが人間を認識する際、概念形成の対象となる人間に向けて私たちが精神に中にもたらす作用が、形相的概念と呼ばれる。一方、その作用により認識され表された人間は、対象的概念と呼ばれる。それが概念なのは、形相的概念に対しての外的な名づけ[denominatio extrinseca]によるからであり、だからこそ、形相的概念を通じて対象の概念が形成されると言われるのである。したがって「対象」的[概念]と言われて申し分ないのは、それが概念形成を決着させる内的な形相としての概念ではなく、形相的概念が向けられる対象もしくは質料としての概念であり、精神の注意[mentis acies]がまっすぐに向かう先だからである。このことゆえに、アヴェロエスによれば、一部の論者たちはそれを「知的志向性」と称し、また別の人々は「対象的思惟」と称している。
(この節、続く)