スコトゥスの愉悦論から

La Cause Du Vouloir Suivi De L'objet De La Jouissance (Sagesses Medievales)ドゥンス・スコトゥスのテキストも久々に見ている。モノは『意志の原因』『愉悦の対象』という二つの論考を収録した仏訳本(La Cause Du Vouloir Suivi De L’objet De La Jouissance (Sagesses Medievales), trad. François Loiret, Les Belles Lettres, 2009)。そういうタイトルの独立した論考があるのではなく、最初のものは『命題集注解』第二巻の二五章、二つめは同じ注解書の第一巻第一章第一部問一をそれぞれのタイトルで収録したもの。どちらもスコトゥスの自由意志論の重要なテキストとされているけれど、とくに前者については大幅に違う三つの異本を収録していて資料価値も高い。さしあたり、その三つの比較(これはとても興味深いところなのだけれど)はとりあえず後回しにして、まずは二つめのタイトルである『愉悦の対象』を読んでみた。というわけで早速メモ。

スコトゥスが展開しているのは、愉悦の対象(すなわち神)はそれ自体で究極の目的であるということを証すための議論なのだけれど、その過程で、有限なものと無限のものとの関係性について触れている。愉悦の力が休まるのは、最も完全な存在者のもと、すなわち至高の存在者のもとにおいてだとされ(10節)、それはちょうど質料が内的な他の形相のもとにおいて休止するのと同様だと言われる(11節)。また、低位の知性が上位の知性を仰ぎ見るとき、その知性は上位のものを「有限」なものとして見るがゆえに、それを超越しうる何かを思惟することができ、かくして人間(の意志)はおのれに示される限定的な善を見つつ、より大きな善を求めることができるのだとも記されている(12節)。なるほど、無限のものへの志向性が有限なもののなかにすでに内在している、というのがスコトゥスの見解の要の部分ということらしい。そしてそれは自然本性的なもの、自然的理性によるものであって、神の似姿としての魂といった神学的な議論(信仰による議論)を持ち出す必要すらない、とスコトゥスは言う(13節)。哲学的議論にしかるべき位置づけがなされているというわけだ。