連休中読書ということで、これも最近出たばかりの藤川直也『名前に何の意味があるのか: 固有名の哲学』(勁草書房、2014)を読んでいるところ(例によってまだ途中だが)。固有名論を扱った著書で、基本的にはミル説と称される「固有名の意味論的内容は指示対象以外ではない」という説のマイナー・リペアを中心の議論としている。ただ、その前提となる最初の二つの章では、かつてクリプキなどによって批判されて大いに後退したかに見える記述説(名詞の意味を担うのは、その名詞を述語づける記述の束であるという説)も、新たな議論を踏まえてアップデートされ、それなりの位置づけを得ている。そのアップデートの中心的アイデアになっているのは、記述の束を、発話をガイドするための一種の対象ファイルに見立て、発話者たちをいわばそうしたファイルが繋がっていくノードと見なし、全体が情報のネットワークを形成するという考え方だ。記述説をそれだけにとどめず、ネットワークとして社会的な説明へと開いていこうとするところがとても面白い。分析哲学特有の緻密な議論では、しばしばあまりにも限定的な規定がなされるために、それが取りこぼしている側面からの反論が出てこざるをえず、結果的に議論が大いに多様化していくような印象があるのだけれど、ここで示されているのはかなり弾力性をもたせた議論で、確かにこれで対応可能な異論の範囲はかなり広くなっているように思われる。名前全般の問題を考えるための、拡張を施す拠点的な考え方になるのかもしれない(そうかどうかは改めて考えてみないといけないけれど)。とはいえ、これは主に発話での指示についての議論で(あるいは前意味論的議論)、(著者が分けて考えているように)名前そのものの本来的な指示(意味論的議論)は、やはり直接指示という形で言語的規約を考えなくてはならないということになるようだ。