個人的にはしばらくメディオロジー系からは離れているものの、邦語での関連書が出たりすれば一応目を通したいとは思っている。というわけで、最近出たジュビレ・クレーマー『メディア、使者、伝達作用―メディア性の「形而上学」の試み』(宇和川雄ほか訳、晃洋書房)をちらちら見ているところ。まだ途中まで。とはいえ、同書はなにやらあまり落ち着いて読んでいられない(笑)。なんというか様々に「煽られている」かのように感じてしまうからだ。個人的に、メディア論のようなものはどこか詩的な、良い意味での「いかがわしさ」があったほうが好ましい気がしてはいるのだが、このドイツ圏のメディア論にあっては、やや方向性の異なる「いかがわしさ」を漂わせてくる、というか(笑)。文章そのものはかなり正攻法でせめてくる感じだ。ひたすら教科書的・図式的な記述たろうとしているかのようで、少し面白味を欠いてしまっているようにも見える。取り扱うテーマも多岐にわたり(それもまた教科書的だ)どこか雑多な印象を与えるし、個別のテーマもただそこに投げ出されてしまっているかのようにも見える。ただ、そうした放言の全体が、こちら読み手側に、なにやら挑みかかってくるかのようなのだ。
個人的に最も注目していたのが、伝達論でのモデルとして使われてきた「天使」の、そのモデル性についての問題。著者のクレーマーは天使の特性として、(1)具体化(2)ハイブリッド性(3)悪霊への反転(4)ヒエラルキーなどを挙げているのだけれど、たとえば中世あたりの天使論からすると、同書の記述とはずいぶん大きな隔たりを感じずにはいない。とりわけ(1)と(2)などは、天使の話なのにいきなりキリスト論をもってきて、非物質性(天使は本来、非物質的なものとされてきたわけだが)の打ち消しと、媒介する両項の特性を併せ持つという特徴付け(それもちょっと乱暴な話ではある)とをそのキリスト論の話に担わせているのだけれど、これは本来の天使論とは一線を画しているし、(3)についても、堕天使はそのようなものとして構造化されているのであって、天使そのものがいついかなるときも反転するような両義性をもっているわけではない。そういう議論が出るのはずいぶんと「後代」になってからという印象だ。(4)のヒエラルキーについても、これは、伝達論として見た場合に示されるような、単なる両項の間のグラデーションの多様性という話に還元できるものではない……。とまあ、こんな感じで、それぞれにツッコミを入れる余地があり、メディア論で語られる天使の形象が意外に偏っていること、あるいは時代的に比較的新しい部類であることには、十分留意する必要があるように思われる。というか、そのように図式化された天使論をベースにして伝達論を語ることには、やはり無理があるのではという気さえしてくる。で、こうした批判的な見方で臨むなら、伝達作用の諸相として同書で挙げられている他のテーマ、すなわちウィルス、貨幣、翻訳などについても、同じように再考していかなければならないのではないか、という思いを強くする。たとえばウィルスのテーマについて言うなら、感染ははたして伝達作用に括られうるのかとか、それを象徴的な暴力とかにまで敷衍することは許されるのか(転写はミメーシスと言えるのか)とか、同書が端的に言い放ってしまうところを、改めて検討し直さなくてはいけないのではないか、と。そのような再検討を促すという意味で、同書は逆説的に「買い」だったりする……のか?