先日ようやく、映画『ハンナ・アーレント』(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督作品、2012)(オフィシャルサイトはこちら)をiTunesのレンタルで観た。扱われる事象の重さ(アイヒマン裁判それ自体や、アーレントが被った精神的な傷などなど)に対して、全体的に淡々とした、よく言えば抑制の利いた、悪く言えば薄味の演出だったような気もするのだけれど、ま、それはともかく。字幕で一つ引っかかったのが、ハイデガーとの回想シーンで出てきた「情熱的思考」という言葉。うーん、そんなのハイデガーにあったのかしら、と思ってネットを探してみるが、どうもそれらしいものにヒットしない。でもそんな中、アーレント側からの研究論文が目に入る。加藤篤子「アーレントからみたハイデッガーのDenken」(人文8 学習院大学、2009)というもの。
それによるとアーレントは、ハイデガー80歳の寄稿文(1969年)において、その「思索」(Denken)が「生命感と一つになるような情熱的な思索」だと持ち上げているのだという。けれどもその一方で彼女は、70年代の講演にもとづくとされる『精神の生活』で、ハイデガーの「思考」(Denken)に批判的な見解を示してみせる。で、その両義性をも踏まえつつ、アーレントによる批判の内容を検証しようというのがその論考なのだけれど、一つ興味深い点が、アーレントの考える思考の構造・枠組みだ。カントに依拠しつつ、アーレントはこう考えているらしい。自分が考えるというとき、それは感覚に現前しないものに係わり合っている。思考はそのとき現象世界(常識=共通感覚)から一時的に退却する。思考は認識から断絶するものであり(それらの境界線を曖昧にしたとして、アーレントはドイツ観念論を、ひいてはハイデガーを批判するのだという)、世界から退却した思考は現象しない。けれども反省的意識はその性格上、思考のための内的な場所を指示せずにはいない。かくして思考活動が続く間のみ、あるいはその都度、精神の能力とその反省性が意識されることになるというのだ。こうしてアーレントは、経験的思惟を定立的な存在として解釈するハイデガーに対立する。そんなものは定立的には存在せず、思考が働く間のみ、翻って反省的に立ち現れるにすぎないのだ、と……。うーむ、これは時代的に見てもとても興味深い構造的シフトかもしれない。アーレントもやはり、なかなか侮りがたいかも(笑)。