福島大学で教鞭を執っている知り合いが急逝したという悲報を、今週の半ばに受けた。学部と院時代の同期だけれど、親しいわけではなかった。とくに院では、向こうが留学から帰ってくるタイミングでこちらが留学するという感じですれ違ったので、本当にわずかしか言葉を交わしたことがなかった。でも、一応の学問を目指すという意味での淡い連帯感のようなものは−−もちろんそれはこちらの独りよがりだが−−間違いなく感じていたと思う。そのため、訃報に接した衝撃が去った後は、どこかひりひりとした感触だけが残った。ユルスナールやデュラスの研究者だったが、考えてみると彼が書いたものをこれまでちゃんと読んだことがない。そんなわけで、弔いという意味合いも込めて、その文章に接してみようと思い立った。幸い手元に『トラウマと喪を語る文学』(中里まき子編、朝日出版社、2014)があり、これに氏の短い論考が掲載されている。林修「マルグリット・デュラスにおける共同体の再構築」というものだ。
同書は震災後に、岩手大学で開催されたというシンポジウムなどの発表を中心にまとめた論集。文学における喪というテーマを軸線として、宮沢賢治についての研究報告や、(個人的にとくに興味を覚える)アルヌール・グレバン『受難の聖史劇』(15世紀)、フランス古典主義における悲劇、ミシュレを扱ったものなどなど、多岐にわたる研究発表が収録されている。上記の氏のデュラスについての論考は、デュラスの考える「共同体」観を、その諸作品に描かれる人間関係についての問いから捉え返そうとするもの。そこから導かれるのは、精神分析が言うエディプス的な主体構築とは別様の、自発的な禁制によって築かれる分離と差異に彩られた新しい主体化と共同体の可能性なのだという。デュラスが抱くそのようなビジョンについて、「お互いの無理解、他者の不可解性に基づいた共同体とはどのようなものなのか」「現実の社会において実現可能であるのか、それとも「明かしえぬ」ものに留まり続けるのか」と氏は問いかけつつ、それは「政治的なプラクシスに入り込む」がゆえにさしあたり扱わないとして、論考はデュラスがその到来を切望していたことを示唆して閉じられる。けれどもそのプラクシスの可能性こそ、今や真に問われるべきことなのかもという意味で、これはとてつもなく大きな置き土産といえるかもしれない。