イアン・ハッキングの『知の歴史学』のどの部分かに、いきなりプラトンの初期対話篇の一つ『ラケス』についての言及があったことがきっかけで(笑)、とりあえずLoeb版(Laches. Protagoras. Meno. Euthydemus (Loeb Classical Library))でざっと読みしてみたのだけれど、これがまた、なんというか、哲学的議論のある種の祖型を思わせるような構成でなかなか興味深く読める。最初議論は、リュシマコス、ニケアス、ラケスの間で、子どもらにどういう教育をするのがよいのかという話で始まる。立派な軍人にするための軍事教育がいいのではないか、いやいやそうしたからといって立派な兵士になれるとは限らないようだ、といった賛否両論が出、ここでソクラテスが割って入る。そもそも何の話をしていたかに立ち戻ろう、それは軍事教育の話ではなく、若者たちにとって何を学ぶのが利となるのか、という話だ、と。教育とはつまり魂の向上のためにあるのだから、まずは徳というものが何かということを考えなくてはならない。その一例として「勇気」を考えてみようじゃないか。……という感じでソクラテスに促され、場は「勇気」の定義をめぐる話にシフトする。けれども、それもまた、提出される定義にことごとく異論が立てられ、結局話はどこにも行き着かないまま、最後にこの話の続きは明日またやろうということになる。これが大まかな全体の流れ。
話が両論の間で行き場を失い、そこからステップバックをして大元の議論へと立ち返り、またそこで行き場を失い……という感じで、連綿として議論は続いていく、という構成は、まさに哲学的(あるいは人文学的)議論の祖型もしくは範例という感じだ。結論は簡単には出ない。けれどもひたすら議論を続けることが肝心なのだ、と。その中でこぼれ落ちるものこそが、浅薄な定義などではまったくない、深い知恵となっていくのだ、と。そうした継続の利点を教育的に巧みに舞台化し、しかもその「教育的」な議論が教育問題を論じる形で展開するところに、この対話篇の妙味もあるといえそうだ。小手先の実学では逆説的に役に立たない。教育が何を担うかという問題の根源にまで遡らなければ、何を教えるのかという設問に真に取り組むことはできない、というあたり、経済志向一辺倒の大学改編論者たちに投げつけてしかるべき警句そのものだ。