間が空いてしまったけれど大西克智『意志と自由』の続きをゆっくりと堪能中。少しばかりメモ。前回取り上げたグルヤール論文には、初老の女性による反応の事例としてこんな話が出てくる。まずビュリダンは「食べることと食べないことは同時に可能か」と相手の女性たちに尋ねる。当然「可能ではない」という答えが返ってくる。すると今度は「神は全能で世界を無に帰すこともできる。ならば食べることと食べないことが同時に可能であるようにすることもできると思うか」と問う。女性たちは一様に「わからない」と答える。実際には、当時の神学的な考え方からすると、神の全能性といえど無矛盾律の制約だけは受けるとされていたわけだけれど、一般信徒はさすがにそこまで知ることはなく、判断が保留にされてしまう。そんなわけで、謬論により認知・同意が弱められる例としてビュリダンはこれを挙げているのだけれど、改めて重要なのは、その無矛盾律の尊重が一四世紀当時においてきわめて一般的だったという点。
反対の行為を選ぶ潜勢的力能、あるいは潜在的な選択性は、続くスアレス(第三章)においてはさらに汎用的に拡張されるらしい。知性がもたらす判断に対して意志の同意を先行させることにより、意志の自由が担保されるという図式が、スアレスにあってはいっそう精緻化されるらしいのだけれど、その場合の意志の同意は、基本的に潜勢的な選択肢を<潜在的に比較する>ことから成り立っている。しかもそれは、あくまで回顧的に、後から「そういえば、これこれはあれとの比較で選んだのだな」とわかるような、というか再構成されるような比較であり、そうした比較があればこそ、別の選択もあったという意味で「事前に決定されてはいなかった、自由だった」ということが確信できるという類のプロセスなのだという。なるほどスアレスにおいて自由は、常に回顧的に見出されるものでしかないというわけだ。けれども実際の行動に際しては、比較の意識などまるでないような場面も多々ある。で、スアレスはそのような場合があることも認めつつも、そうした方向には議論を進めてはいかないのだという。それがスアレス、ひいてはイエズス会全体のある種の思想的限界(?)なのかもしれない、と。彼らにおいて抑圧されるもの(同書ではそれを選択という外挿によらない、内在的な「自己決定」だとされる)を救い出すには、どうやらデカルトを待たなくてはならないらしい。