懐疑論のもう一つの帰結

再びメイヤスー本(Quentin Meillassoux, Après la finitude, essai sur la nécessité de la contingence, Seuil, 2006)から、今度は第二章。ここでは、絶対的なものの否定というアンチドクマの動きが、いつしか狂信への備えを無力化してしまうという思想史的・構造的な逆説について詳述されている。というわけでまとめておこう。事の起こりはデカルトによる神の存在証明だという。「神はこの上なく完全であり、実在するとは完全であることなのだから、神は必然的に実在しなければならない」というもの(注*)だが、これに対して、たとえば有名なところではヨハネス・カテルスの、それは神の実在の論証ではなく、存在の概念が神の概念と切り離せないことの論証でしかない、といった反論が出されたりしているわけだけれど(注*)、メイヤスーが問題にするのは、とりわけその絶対的なものの措定をめぐって、カント以降、(メイヤスーが言うところの)「相関主義」(corrélationisme)による反論が優勢になるという点。デカルトの議論の泣き所は、実在しない神という概念が「矛盾する」という点にある(このあたりはガッサンディの批判点でもあるようだ(注*))。カントが攻めるのもこの泣き所。つまり神が実在しなくても矛盾などないという議論だ。それが矛盾だとすると、神は必然的に実在することになる。カントからすれば、これは認められない。絶対的な事物それ自体が認識されえなくても、少なくともそれは考えられうる。実在の有無に関係なく、限定されたなんらかの存在を思い描くことができる。存在論的論証はかくして失効させられる。

あらゆるドグマ的な(独断的な)形而上学は、少なくとも一つは絶対的に必然なものを前提としている。そのため上の批判的議論は、そうした形而上学全般へと敷衍することができる。メイヤスーはこのカント的なスタンスを「弱い」相関主義と称している。絶対的なものは存在論こそ斥けられるが、それを思い描くことは禁じられていないからだ。一方、現代的な脱絶対化の哲学的立場は、絶対的なものを思い描くことすら不当だとする。これが「強い」相関主義とされる。思惟が及ばないものについては思惟する可能性すら厳密に認めない。けれどもそうとなれば、翻ってその思惟が及ばないものは、私たちの表象の外部に存続し続けることにもなりかねない。これも大元はカントにある。カントは、認識のアプリオリなフォルムだけが記述できるのであって、事物それ自体はアクセス不可だと考えていた。フォルムの作為性と「それ自体」の溝はあまりにも大きく、その作為性こそが、世界を前にしたときの客観性の越えがたい限界をなしているのだ、と。で、作為的なフォルムが思惟の限界をなす限りにおいて、思惟の及ばないものを「ありえない」として斥けることすら、ありえないことになってしまう。すると、実に逆接的ながら、絶対的なものについての合理的でない言説も、失効させるのは不当だという帰結に至ってしまう。絶対的なものの終わりを標榜していたはずが、絶対的なものの価値を廃絶するどころか、逆にそうしたものを許容するしかなくなってしまうのだ。形而上学の終焉が、ありとあらゆる宗教的な信仰の正当化を招いてしまう。懐疑主義と信仰至上主義がこうして結びつく。もちろんそこで言う信仰至上主義には、イデオロギーなども含まれる。メイヤスーは、現代的なファナティシズム(狂信)を、単に復古主義の再浮上(西欧的な批判的理性の既得権に対する)と捉えるのではなく、逆にそれが批判的合理性の(副)作用として生じていることに目を向けるべきだと説いている。

注*:デカルトの神の存在証明については、マイケル・レイスウィング「デカルトの存在論的議論」(Michael Lacewing, Descartes’ ontological argument)というチュートリアル文書を参照。これは簡潔にまとめられていて有益。