グロステストの学知論

少し前にメルマガのほうで、グロステストの『光について』を読んでみたのだけれど、それは宇宙開闢論にまつわる「光」(原初の物体性をもたらすとされる第一の形相)について論じたものだった。で、その時に参考にしたマッケヴォイ『ロバート・グロステストの哲学』(James Mcevoy, The Philosophy of Robert Grosseteste, Oxford University Press, 1982-2011)では、それとは別に、グロステストには「光」を学知論に結びつける議論もあることが示されていた。そのあたりは後で改めて検証しようと思っていたのだけれど、その問題に直接的にアプローチしている論考をたまたま目にすることができた。サイモン・オリヴァー「ロバート・グロステストの光・真理・経験論」(Simon Oliver, Robert Grosseteste on Light, Truth and Experimentum, Vivarium, Vol.42, No.2, 2004)という一篇。これによると、グロステストにおいて「光」は、観察、自然学、数学、形而上学、神学を結びつける重要な要素をなしているといい、基本的な図式はアウグスティヌスの照明論を引き継いでいるものの、少し後のゲントのヘンリクスの照明論などに比べると、「光」が知そのものを指し、それと渾然一体となっている点などが際立った特徴をなしているようだ。以下、メインストリームだけを要約しておこう。グロステストにおいても神の光は太陽になぞらえられているのだけれど、それは太陽が色(減衰した光)をもたらすという意味においてであり、神の光は人間に、被造物についての減衰した真理をもたらすとされるという。そこには決定的な断絶があり、人間が真理に近づくには運動や時間といったものを介さないわけにはいかない。偶有的なものの観察を通してのそうしたアプローチは、つまりは感覚を通してのアプローチということなのだけれど、被造物が「光」(コスモゴニー的な光か?)によって創造されている以上、それらの観察はすでにして光に与ることにほかならず、神のイデアという最高位の知的光への到達に向けた第一歩がそこから始まるのだとされる。この意味で、そこでの「光」とは、(ヘンリクスなどが考えているような)魂に内在する能力のみでの認識に神の照明が「付加」されるといったものではなく、最初からすべての知的営みが神の照明に与っているのだとされる。すなわち神の照明とは学知そのものである、というわけだ。なんとも強烈な照明論。主に『分析論後書注解』がこのあたりの重要文献のようなので、それもぜひチェックしたいところだ。

上のマッケヴォイ本:

The Philosophy of Robert Grosseteste