スコトゥスと仮象

John Duns Scotus on Parts, Wholes, and Hylomorphism (Investigating Medieval Philosophy)精読したわけではないのだけれど、ドゥンス・スコトゥスについてちょっと面白そうな研究書が出ている。トマス・ワード『ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスによる部分、全体、および質料形相論』(Thomas M. Ward, John Duns Scotus on Parts, Wholes, and Hylomorphism (Investigating Medieval Philosophy), Brill, 2014)。メレオロジー的な考え方を踏まえつつ、スコトゥスの質料形相論について全体的なパースペクティブでまとめ上げようという野心的な論集(と見た)。スコトゥスの質料形相論がらみでは、たとえば形相の複数性の話や、複合体である実体がまた別の実体の部分をなすといった議論、あるいはオッカムなどとの対比など、いくつかのポイントがあると思うのだけれど、同書はそうした細かい点をおおむね網羅していそうな印象。そんななか、個人的にすごく気になったのが、第七章の「suppositum」の問題。suppositum(代示)は普通、論理学の文脈では意味論的な関係性をなすものを言うのが常だったと思うが、どうもここでのスコトゥスの使い方はそれとは異なり、独特な存在論的身分が与えられている模様(なので、ここではsuppositumをさしあたり「仮象」と訳出しておくことにする)。で、それは何かというと、他に内在するでもなく、実体の本質的部分でも全体的部分でもない、位格のようなもの、最終的な現実態をなしている(実体に依存しない)ものなのだという。スコトゥスはこれに、たとえば天使(の存在様式)などを含めて考えている。そしてそのようなものは、別の実体の部分をなすことはできないとされる。他の実体の部分をなすのはあくまで実体だ、と。

同書によれば、オッカムにも似たような見解を示している箇所があるという。けれども異なるスタンスは当然あって、オッカムの場合、複合体をなしていたいずれかの部分が分離される(つまり部分でなくなる)と、それは仮象になると考えているのだという。実体に組み込まれている間は部分として実体の一部をなしているのに、ひとたび分離されれば、それは同じ「モノ」でありながら、そのまま自立的な存在として仮象でしかなくなるというのだ。したがって仮象とは偶有的に生じる属性(形相と質料の両方にとっての)なのだとされる。こうしてみると、最近のエントリやメルマガで触れた、トマスやヘンリクス(ヘントの)に見られる実在論的表象主義の、ある種存在論的に進んだ(深まった)形がここに見られるのかもしれない、という感じがしなくもない(ホントか?)。もちろんこれが、意味論的、あるいは概念論的な表象的実在とどう関係するのかは再考が必要になるだろうけれど……。同書によれば、この仮象(今度はスコトゥスのもの)概念が重要なのは、カルケドン公会議以後のキリスト論、つまりキリストは一つの人格ながら神と人の二つの性質を併せ持つという議論を、アリストテレスの範疇論と突き合わせたときに生じる齟齬について、なにがしかの解決をもたらしうるからなのだという。なるほど、神学に立ち入る部分は、中世思想の場合外すわけにはいかない(当たり前だが)。