スコトゥスと時間概念

前回のエントリの続き、というわけでもないのだけれど、スコトゥスの時間概念についての考察を見かけたので取り上げておこう。パスカル・マシー「ドゥンス・スコトゥスにおける時間と偶有性」(Pascal Massie, Time and Contingency in Duns Scotus, The Saint Anselm Journal, vol. 3.2, 2006 )(PDFはこちら)。哲学プロパーの議論に踏み込んでいるので、ちょっとややこしいのだけれど、とりあえずまとめておこう。ここでもまずは、時間を運動の考察から切り離したことがスコトゥスの大きな転換だったとされている。スコトゥスは、運動のともなわない時間がありうるという議論(現実態の時間のほか、潜在的時間も存在するという)を示しているという。この観点からすると、たとえば「時間を超越している」とされる神にとっての「永遠」はどういうものになるのだろうか。ボエティウスなどは、「円の外周のどの点も中心から等しい」ように、神にとっては時間のどの時点も同様に現在をなしている、といった言い方をしているというのだが、スコトゥスはこれに異を唱える。この円周と中心のイメージを修正し、次のように言うというのだ。時間の円は最初に点の全体が与えられるのではなく、中心と任意の端部の点から成る直線がたえず動き続けるだけで、各瞬間には円周が存在してはいない。言い換えると時間の円は固定されているのではなく、幾何学者の想像力においてたえず描かれつつある。つまり、その永遠なるものは、潜在的な時間(ありうる円周上の諸点)とは共存(co-exist)していない。永遠概念が共存できるのはあくまで現実態の時間的存在(実際に動く端部)とのみなのだ。神にとっての現在(時間を超越した現在、つまりは永遠)は、現実態の時間、すなわち時間的な「今」とのみ共存可能なのだ、と。

というわけで、スコトゥスにとって唯一現実的なのは「現在」だけなのだというのだが、同時にそれは「直ちに過ぎ去る」という意味で流れゆくものでしかない。では永遠と時間との関係はどうなるのか。上の議論から永遠は時間全体と共存することはできないとされ(ちなみにそれらが共存できるとするのがトマス・アクィナスの立場)、スコトゥスの場合、共存できるのはその「現在」のみとされる。神が未来を知るという場合、神はそれを未来のこととして、つまりまだ現実態になっていないものとして知るのであり、神の自由意志において、そうでないこともありえるものとして知るというわけだ。現在とはしたがって、現実態になっていないものが神の判断という原因領域において現働化する契機を言い、ゆえにそれは「t」で表されるような任意の時間ではない。しかもそれはすぐに消えて流れ去る。ということは、私たちの「現在」においてのみ永遠は生じ、しかもそれは「現在」にとっての「他者」としてのみ生じ、その意味では「生じてなどいない」とも言える……。なにやらややこしいが、「現在」が生じることが、永遠を指し示し、かつまた永遠それ自体は時間の流れの外に<常に>あって、そもそも「生じて」などいないというわけだ。時間のうちに存在するものは、偶有的に存在しつつも、それが一度きりの存在だという意味で、永遠に「かつて存在した」ものとなる。これはまた、偶有性と運命性とが出会う場でもある。スコトゥスの議論からこうしたテーゼを引き出すのも、ある種の力業という感じがしないでもないが(笑)、いずれにしてもそれが、神の認識における「永遠」と、人間の時間的「現在」との通行路を開いてみせているのだとしたら、そこにこそスコトゥスの革新性を見て取るべしという話も、あながち外れてはいないのかもしれない。