再びダヴィッド・ラブーアンの著書(Mathesis universalis
)からメモ。ルネサンス期の「普遍数学」概念の受容と変遷についての部分だ。普遍数学なるものを掲げはしても、アリストテレスにはその対象をめぐる統一性に曖昧さが残るしかなかった。なにしろ普遍数学が扱うとされる数それ自体と、量(大きさ)との間(あるいは算術と幾何との間)にはなにがしかの乖離があるのだから。これに対するプロクロスの解決策はある意味とても奇抜だ。プロクロスはそこに「想像力」の「投影」を持ち込み、これによって数学に固有の対象の存在領域を策定しようとする。つまり一種の心理学的作用によって論理学と自然学の間に新たな対象領域を画定しようというのだ。そしてまさにこれはルネサンス期のプロクロスの再発見において、とくに注目を集める部分の一つとなったらしい。数学が媒介的な学問であることもこれで担保される。
ルネサンス期の「普遍数学」の言及も思いのほか少なく、代表的なのはベルギーのファン・ローメン(16世紀末)や、ドイツのヨハン・ハインリヒ・アルシュテット(17世紀初頭)などで、両人の参照元としてスペインのイエズス会士ベニート・ペレイラ(16世紀末から17世紀初頭)がいた。イエズス会の中では、教育典範の改正が進み数学を重視する動きが強まっていたとされる。ペレイラでは「共通数学」概念と、数学の「確かさ」の問題(数学が対象とする量がいわば「二種類」あることをめぐる議論)とが連動しているというのだけれど、これもさらに少し遡ると、16世紀半ばのアレッサンドロ・ピッコロミニに遡るらしい。ピッコロミニはプロクロスのテーゼ(数学の対象が想像力と一部結びついていて、それがある種の抽象化をなし、その抽象的性質が論証になんらかの可塑性を与える、というもの)をもとの文脈から切り離した形で前面に出す。ちょうど16世紀半ばにはプロクロスの再発見があり(ダシポディウス、ラメなど)、「普遍数学」の表記そのものはなくとも、プロクロスの文献はそうした各種の議論において頻繁に使われるようになったという。
ペレイラによって前景に押し出された数学の「確かさ」問題は、ピッコロミニやバロッツィ、さらにはラムス、ダシポディウスなども絡んだ議論の中心をなしていたといい、ほかにも算術を拡張した一般算術を唱える論者などや(マウロリコ:16世紀半ば)、アラブ世界に発する代数学をそうした一般学として提唱する者たち(16世紀後半のヴィエト、ステヴィンなど)もいて、算術と幾何学の接合をめぐる諸論はなにやら実に錯綜している印象だ。なかなかデカルトには行き着かないようだが、同書の著者ラブーアンは、デカルトへの導線は多数あり、そのうちのどれかを直接的な導線として特権化できるような要素はどこにも見当たらないと指摘している。数学の位置づけをめぐる遡及(アヴェロエス主義からロジャー・ベーコンにまで遡れるという)もそうだが、ルネサンス期の数学的議論の多様性もまた、まだまだ奥深い探求領域であるのだという。なるほどね。