先に取り上げたラブーアン本に続いて、再び普遍数学前史を今度は邦語で見てみる。佐々木力『デカルトの数学思想 (コレクション数学史)』(東京大学出版局、2003)。この第二部が、デカルトに至る普遍数学概念の変遷史を取り上げていて、ラブーアン本と補完的な感じになっている。もっとも、同書は1988年にプリンストン大に提出された学位論文のご本人による邦訳とのことで、この「補完」という言い方では完全にアナクロニズムになってしまうのだけれど……(笑)。佐々木本は、ラブーアン本があまり詳細に取り上げていない中世(触れていないわけではもちろんないけれど)や、17世紀のファン・ローメンなどについて比較的多くのページを割いている印象。この第二部はきわめて実証的な思想史研究となっていて、様々なディテール(それぞれの論者が当時のどの翻訳に準拠しているかとか)が実に興味深い。
中世で取り上げられるのは、アルベルトゥス・マグヌスとトマス・アクィナスのライン、さらにその関連でアヴェロエス、またそのラインと対立的なロジャー・ベーコンからのオックスフォード・プラトン主義の流れ、さらに同じフランシスコ会系からドゥンス・スコトゥスの弟子アントニウス・アンドレアエ。ある種の模範解答となったアヴェロエスの解釈は、アリストテレスの「ἡ καθόλου」を普遍学と取り、第一哲学(哲学全体の諸原理を扱うもの)に結びつけ、数学などは(狭義でならば形而上学までも)普遍学から排除しているとされる。数学は自然学と形而上学を架橋するものですらないとされている。スコトゥス主義者アンドレアエもまた、形而上学のみが普遍的であるとの解釈を示している。数学は「なんらかの特定の本性を扱い」、したがって普遍学の地位にはつけないというわけだ。
ルネサンス期についても、佐々木本はアゴスティーノ・ニフォー、フォンセカなどを取り上げていて興味深い。ニフォーは、上のἡ καθόλουを共通数学と取るアフロディシアスのアレクサンドロスと、普遍学と取るアヴェロエスの解釈を両方とも知っていた可能性があるといい、その上でこれを「他を包括する共通数学」のように取っているという。フォンセカは、数学が様式的に形而上学に類似することを指摘しつつも、普遍的なものはあくまで第一哲学という解釈らしい。このあたりはペレイラ(バロッツィの新プラトン主義的数学観に対抗)への援軍の意味などもあっただろうといい、なかなか複雑そうだ。
そしてさらに、デカルト前夜ということで比較的大きく取り上げられるのが数学者のファン・ローメン。共通数学の概念を普遍数学と称し、算術を幾何学の問題に適用することに反対したスカリゲルなどと対立しているという。ἡ καθόλουは数学的なことを含意しているとして、第一数学(数学的諸学の内部にある、他の数学的諸学の道具として用いられるもの)を提唱し、哲学における第一哲学に相当するものを数学内部に打ち立てようとしたという。哲学の優位への信念からは必ずしも自由ではなかったとはいえ、数学を相対的に「第一」で「普遍的」なものに引き上げた点が高く評価されている。同時代の代数学の発展などをも背景にあり、ファン・ローメンの「普遍数学」は、古代ギリシアの数理哲学、インドの数計算技法、イスラム文明のアルジャブル、中性ラテンの「汎計測」への志向などが含まれたユーラシア数学の集大成だ(p.428)というなんとも壮大なパースペクティブが語られている。うーむ、デカルトを目前として普遍数学前史で堂々巡りをするというのは、やはりなかなか刺激に満ちている(笑)。