アンソニー・グラフトン『テクストの擁護者たち: 近代ヨーロッパにおける人文学の誕生 (bibliotheca hermetica 叢書)』(福西亮輔訳、ヒロ・ヒライ監訳、勁草書房、2015)を読み始める。とりあえずざっと前半の第四章まで。以前『カルダーノのコスモス』などでも思ったのだけれど、グラフトンは該博な知識をぼんぼん投げ入れてくるので、読む側がそちらに気を取られてしまうと、議論の主筋から意識が逸らされてしまう感じがする(ルネサンス的ということなのかな?)。だからあまり気が抜けず(笑)、いきおいどっと疲れる読書になりがちだが、今回のこれは各章が独立している論集ということで、そういう緊張の持続時間が章ごとで区切られるので多少助かる。かなり広範なテーマが扱われているようだけれど、数多くの誤謬や珍説などが飛び交う中での学知の成立というのが主軸になっている印象。
前半でとくに個人的に惹かれたのは第三章「捏造の伝統と伝統の捏造」。ヴィルテボのアンニウスという15世紀イタリアのドミニコ会士を扱った章だ。文献学と贋作との間を行き来した時代の申し子という感じで、著者はその姿勢というよりも手法を追い(とみずから宣言している)、アンニウスが使ったであろう出典を猟渉・列挙していくのだけれど、グラフトン自身がはるかにストイックに学究を手がけているせいか、同書では「贋作をなす快楽」とでもいったものへの鷹揚さ・共感(よい意味での)が文面に反して(著者はアンニウスの独創性や多才ぶりに言及しているのだけれど)あまり感じられない気もする。贋作を成立させるには、まずもって博覧強記でなければならないし、言語の修得などにも相当に抜きんでていなくてはならない。その意味で贋作・偽作というのは、学問的な完成度を示すある種の高度な「遊び」にもなりうるはずだ(そういう偽作をいつか作ってみたいという夢は個人的にもある(苦笑)。いわば古い時代の書の二次創作だ)。そうした広義の遊びの感覚・感性が仮にルネサンス期にも見いだせるのだとすれば、だからこそアンニウスの影響というのは広範に続いていったのかもしれないし、当時の諸学者たちは多かれ少なかれそうした偽作と真正との往還運動に手を染めていたのかもしれないし。うーむ、このあたり、余裕があるときに個人的にもなんらかの形で検証してみたいところではある。贋作・偽作の精神史というのはなかなか面白そうなテーマだ。