デジタルとアナログの接合

ドゥルーズの哲学 生命・自然・未来のために (講談社学術文庫)小泉義之『ドゥルーズの哲学 生命・自然・未来のために (講談社学術文庫)』(講談社、2015)をKindle版で。もとは2000年に出た新書。今回の講談社学術文庫版では、数学的経験の哲学がよかった近藤和敬氏が解説を書いているのだけれど、これが前半部分の中核部分、つまり数学的な事象をめぐる考察のよいまとめになっている。これだけ読んでもよいくらいな感じ(笑)。小泉氏が読み解くドゥルーズの数学がらみの議論のアウトラインはこんな感じか。ごくわずかな差異を生み出す大元として、ドゥルーズは微分方程式を念頭に置くわけだけれど、現実世界においては、微分方程式を積分して特定の解が得られるような事象はまず「ない」。現実問題としての微分方程式は「解けない」のであって、それを解こうとするには場合分けをして変数を相当に絞り込んで限定しなければならない(コンピュータシミュレーションの世界だ)。けれどもそうした操作とは別に現実世界の事物は実際に存在する。で、ドゥルーズは、そのような解けない問題に対して自然は、生命は、なんらかの不可知的な様態で答えを出している(答えを出すプロセスは全体としてたたみこまれている)と見ている……というわけなのだけれど、ここに少なからず誤解の芽というか、ある種の倒錯、突き合わせの無理があるようにも思われる。数学はおびただしい現実的要素を捨象して成り立っているわけだけれど、それを反転させて、そちらから現実世界を導くのはほぼ不可能(捨象した現実的要素の全貌は計り知れないから)であり、その意味で数学と現実世界はどちらも相互に異質なものであるほかなく、比喩として用いるのでもない限り、もとよりそのままでは接合しえない……。確かにドゥルーズは数的なもの、微分的なものと称して、これをどこか比喩的に処理しているきらいがある。けれども、それにしても人為的に作り込んでいるものから現実世界を再構成できるというのはその人為性ゆえに無理があるだろうし、単にデジタルなものとアナログなものとの接合が問題なのだとしても、これだけ異質なもの同士(微分方程式と生物)を持ち出してくると、後者が前者をたたみこんでいるという仮説の有効性も判然としない(判然としようがないのでは、という気もする)。

もし生物学を持ち出してくるのであれば、たとえば先に挙げたアリストテレス的現代形而上学所収の、ストール・マコール「生命の起源と生命の定義」などのように、異質ではあってもなんらかの共通基盤が見いだせる層において、デジタルとアナログの接合問題を考えるほうが生産的に思えてくる。同論考では、原生動物の一つラッパムシが切断されても自己再生・再構成することに関して、DNAの関与とは別に、縞模様のパターン(動的な4Dパターン)が時空間的に決定されていて、それにしたがって制御されている可能性、もしくは仮説を取り上げている。DNAが離散的(デジタル的)だとすれば、そのパターンのほうはアナログ的で、あくまで前者を補完する関係にあるとされている。しかも予めそのパターンが厳密に決まっているというのでもなく、置かれた時空間の中で動的に作動するというモデルを考えているようだ。これなどはまさに上のドゥルーズ論で言う「転倒したプラトニズム」を堅実に捉えているかのようだ。なるほど確かにドゥルーズはなんらかの点で先進性を見せてはいる(あるいはそれを読む小泉氏も)だろうけれど、それはそれとして、より細やかに、こうした個別の探求や議論でもって補完されていくべきものなのかもしれない……。