タイトルに惹かれて購入してみた『分析美学基本論文集』(西村清和編・監訳、勁草書房、2015)。分析美学というものがどういうものかは寡聞にして知らなかったのだけれど、分析哲学が広義にはある種の形式論理的な議論であるとすると、これを美学に適用するということは、そのまま形式論理的に美的判断の命題や美術的対象の存在論などを問うことになるのかしらなどと勝手な目星をつけて読み始める。まだ前半だけなのだけれど、当たらずとも遠からずという感じで、芸術の定義の問題(ダントー、ディッキー)や美的価値についての論考(ジフ、ジブリー、マゴーリス)が並んでいる。確かに現代アートなど、それがアートであるということの定義を定式化するのは難しそうではあるのだけれど、ダントーは芸術が成立するには、そこに眼では見分けられないもの(芸術理論の雰囲気、芸術の歴史についての知識)が必要であるとして、それをアートワールドと名づけてみせる。いわば体系的な独自の意味の場が、感覚的な与件にすぎない対象に付加されることで、その対象が芸術として再定義されるということらしい。
なるほどこれは、先日取り上げた『数学の現象学』で詳述されていた、フッサールが用いる図式、つまり「外的知覚」(個別の対象)とそれを統一する「統一的契機」(理解をもたらす抽象体)とがともに与えられることで対象が成立するという話をどことなく彷彿とさせる。いくぶん静的な捉え方だが、フッサールの場合、後期になると、その統一的契機がどのように成立するかという動的な議論へと移っていくというのだけれど、このアートワールドの議論もまた、続くディッキーの論考では、対象成立の動的な側面へと話がややシフトしているように思われて興味深い。同著者はアートワールド概念は様々なシステムから成ると見、その大きな原則として、人工物であることと、鑑賞のための候補という身分が与えられることを挙げている。その上で、そうした身分がいかに与えられるのかという問題を取り上げようとしている。同じように、美的価値についての論考では、ジフが対象・鑑賞者・条件・評価の関係性を定式化しようとしている。とくに、提唱されている「アスペクト視」の考え方(ティントレットの絵は引いて見るが、ヒエロニムス・ボスの絵は近づいて細部を見るなど、作品ごとに見方が変化する)が面白い。