前回取り上げた論集からもう一本、ウィリアム・カートニー「オッカム派はあったか?」(William J. Courtenay, Was there an Ockhamist School ? in Philosophy and Learning: Universities in the Middle Ages, ed. Maarten J.F.M. Hoenen et al., Brill, 1995)についてのメモ。1474年の勅令では、批判対象として名指しされているのは、実は「唯名論者」という表記ではなく、「革新派の博士たち」と記されているのだという。もちろんそこで筆頭に挙げられているのは、オッカム以下の非ドミニコ会系の主要な論者たちなのだけれども、実はこれには大元のリストがあるのだという。それはジャン・ド・メソヌーヴが15世紀初頭に著した普遍論で、オッカム、ビュリダン、インゲンのマルシリウスが批判されているのだとか。これが1427年のルーヴェン規約(実在論側の影響を受けている)や、1474年のルイ11世の勅令とそれに対する唯名論側の訴えなどを経て、微細な違いなどはそぎ落とされ、オッカム派イコール唯名論者という図式が成立していったらしい。ロスケリヌスやアベラールが前史として補われるなど、その系譜図が確立されるのはヨハネス・トゥールマイヤ(アヴェンティヌス)以降の16世紀。こうしてオッカムと唯名論者は一種の「復興創設者」となり、それに思想的に連なる人々は「一派」をなしていると考えられるようになったのだという。そんなわけで、現代の歴史家からすると、この15世紀から16世紀にかけて発展した歴史観は正確なものとはいえない、というわけだ。ただし一方で、14、15世紀当時、なにがしかのそうした一派(オッカム派)があると考えられてたのも確かのようだ。
というわけで論考は、オッカム派・唯名論者の伝統をもっと精確に理解することを目的として、方法論的考察と、実例として14世紀パリのオッカム派像(オックスフォード系に関しては、ホルコットやヴォデハムなど、最近の研究で非オッカム的な立場が注目されるようになっているのだという)へのアプローチを念頭に、史料としての1340年の大学規約(二つあった?)と、それを受けての国民団による宣誓書、さらにはそれに先立つ1339年の規約などを詳細に再検討している。本筋の話ではないが、ここでもまた、14世紀を通じてアリストテレスの教説はドミニコ会系の実在論者らの著作を通じて教えられていて、ビュリダンやインゲンのマルシリウスの註解が出てようやく競合するようになった、といった話も出てくる。と同時に、1360年代から1474年の勅令にいたる時期については、「オッカム派」という語はなんらかの意味を担うようになっていたものの、その意味がどこまで広がっていたのか(後にはガブリエル・ビエル、さらにはマルティン・ルターなどまでオッカム派と呼ばれるようになる)など、多くの点がまだ解明されていないのだという。