続いてアリストテレスは、音楽の教育として、歌い演奏させる(手で)ことの是非を問う。もちろんそれは是であり、その理由は、実際に体験してみなければ、価値評価もできないからだと述べている(1340b.22)。また、幼い子供が「ガラガラ」(πλαταγή)でおとなしくなるように、より年齢の進んだ子供にとっては教育がその「ガラガラ」の役割を担うとして、音楽であれば実際に演奏に参加させるのがよいとしている(1340b.25)。年齢が上がって音楽を評価できる価値観を得たなら、演奏から解放するのがよい、とも述べている(1340b.36)。
その具体的な中身も重要だとされる。市民としての徳を身につけされることを教育の目的と考えた場合に、どれほどの音楽教育を施すべきか、どのような旋律(旋法)、どのようなリズムを身につけさせるのがよいか、どのような楽器を用いて教えるのがよいのか(1340b.42 – 1341a.3)、という問題だ。まず最初の点については、ほかの活動を妨害しない程度に、また戦闘や政治を実践できないよう身体を堕落させることがない程度に教育するのでなくてはならない、とされている(1341a.6)。もちろん音楽の専門的な競争を目指す場合などは例外としている。一般の市民としての徳、つまりは軍事や政治に携われるようになることが目的である限り、音楽教育は「ほどほどに」ということのよううだが、一方でアリストテレスは、動物でも楽しめるような音楽全般に共通する魅力を楽しむのではなく、美的な旋律やリズムを楽しむようになることを目標としている(1341a.13)。表面的な感覚の甘美さと、体験にもとづく深い味わいとが対照的に扱われている、ということか(?)。
次にアリストテレスは、こうした観点から、教えるべき楽器について考察している(旋法やリズムについては後回しになっている)。まず笛やキタラのような専門性を要する楽器は取り入れてはいけないとしている(1341a.17)。笛は子供を道徳的にするよりも気分を高揚させてしまうといい、教育よりも浄化の機会にこそ相応しいとされる(1341a.21)。また、笛が言葉を発する妨げになるのも問題だとしている(1341a.24)。このあと、アリストテレスから見て「昔」の教育ではそうしていた、という歴史に関するコメントが添えられ、この第6章が締めくくられる。(続く)