ギュスターヴ・ギヨームの言語論?

フランスのちょっと異質な言語学者だというギュスターヴ・ギヨーム(Gustave Guillaume, 1883-1960)。文脈はそれぞれ別なのだけれど、このところその名前を何度か聞く機会があって、なにやら興味を持つようになってきた。たとえば昨年秋に少し読んでいたラスムス・ウーギルトの『テロルの形而上学』。これの第一部の末尾あたりで、ギヨームの言語論が紹介・援用されている。それによると、その第一の特徴は、スピーチアクトの考え方にアリストテレスの現実態・潜在態の議論を絡めているところにあるという。講義録からの例として挙げられているのだけれど、たとえば具体的な発話としての「表現」と、その潜在状態である「表現性」とを区別しているのだとか。両者が合わさって、言語活動の「一性」(全体性)が得られるということなのだけれど、この本の著者はテロリズムについて語られる「テロル」というものが、そうした現実態としての表現、潜在態としての表現性を合わせたものを超越する、なにがしかの余剰部分をなしていると見る。それは一種のゼロ記号でありながら、同時に余剰記号でもあるようなものだとして、この著者はギヨームの言語論の枠を越えた部分をテーマ化しようとしている(のだとみずから主張している)。うむうむ、これはなかなか面白そうだ。ギヨームを一度読んだ上で、再度この部分を読み直してみたいと思う。またギヨームはアンリ・マルディネなどにも影響を与えているそうなので、その筋からのアプローチも注目されるところだ。そんなこんなで、これはもうギヨームの実際のテキストを見てみるしかないでしょ、という感じ(笑)。