ちょっと毛色の変わった研究を、序文と結論部だけ先にざっと見てみた。マガリ・ロック『オッカムのウィリアムの本質主義』(Magali Roques, L’essentialisme De Guillaume D’ockham (Etudes De Philosophie Medievale), Vrin, 2016)というもの。オッカムのウィリアムはなんといっても本格的な唯名論の嚆矢なので、たとえば事物の共通本性などを心的な像もしくは概念に帰してしまうため、一般にそこで「本質主義」が云々されることはまずなかった(と思う)。つまり、複数の個物が同一視される場合、それは、そうした個物を同一視する者の概念的な理解を介在するがゆえなのであるとされる。そのため、個物になんらかの共通な本性・本質が備わっていると見なすのかどうか、というあたりのオッカムの議論というのは、ほとんど取り上げられていない(というか、そもそも改めて取り上げる価値がないとされてしまう?)印象が強い。ところがこの研究では、現代哲学の本質主義、あるいはアリストテレスの現代的な解釈(クワイン、クリプキ、キット・ファインなど)を一端経て、それらとオッカムの「現実的定義」なるものに注目し両者を照らし合わせることで、いわばこれまで明るみに出てこなかったオッカムの「最小限の本質主義」みたいなところに光を当ることを、大胆にも試みているという次第なのだ。中世哲学プロパーな議論ではないことも含め、方法論的にどうなのかという疑問もないではないが、例によって議論の詳細はまだ追っていないので、さしあたりそのあたりはコメントできない。時間が取れるようになったら確認したいところではあるけれど。