最近、ストア派(いわゆる初期の)の唯物論的なスタンスが改めて気になっている。そんなわけで再度確認しておこうと思い、エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論―附:江川隆男「出来事と自然哲学 非歴史性のストア主義について」 (シリーズ・古典転生)』(江川隆男訳・解説、月曜社、2006)を再読してみた。以前ブログで取り上げていたような気がしていたのだが、うっかりスルーしてしまったらしい一冊。改めて読んでみて、その問題の重要さを再認識する。原書は1908年のもの。やや読みにくさのある訳文だが、中味の重要さはもちろん損なわれない。カテゴリー論といえばアリストテレスのものがすぐに思い浮かぶだろうけれど、ストア派はまた別様のカテゴリー論を展開していた、というのが全体の見立て。クリュシッポスに代表されるような初期ストア派、あるいはその後の中期ストア派にとっての大きなカテゴリー分け(「基体」「性質」「様態」「関係」の四種類が掲げられる)の根底には、物体と非物体的なものという区別があった(前二者と後二者での区別)、というのがブレイエの説。世界を構成するのはすべて物体であるとされ(魂もそうしたものとして語られる)、全体的には唯物論(物質論)的であるわけだけれど、そうした中、たとえば物体とそれに与えられるとされる諸属性との結びつきや、他の物体に作用する様態といった事柄は、述語をもつこと、つまり動詞でもって「表現できること」(λεκτόν)をなしている。そうした事柄がすべて非物体的なものとして括られうる。それ自体としては実在しないもの、それが非物体的なものということになる。論理学と存在論とのあわいに、実体とは無縁なかたちで、非物体的なものが姿を現すかのようだ。
アリストテレスのカテゴリーでは別に括られる「場所(と空虚)」「時間」もまた、ストア派においては非物体的なものへと編入させられる。そこから先は自然学の領域となる。そのコスモロジーでは、物体には現実態・可能態のような区別はそもそもなく、物体同士も接触などしていない。物体同士のあいだには相互浸透が認められ無限分割がなされうる。物体の統一性(境界画定)を保持するとされる、「種子的ロゴス」(同書では「種子的動詞体」という訳語が当てられている)と称されるもの自体も物体であるといい、それは気息という力を有し、強度(トノス)という様態でその力が内的に作用している、とされる。そうした種子的ロゴスを通じて物体同士が織りなす関係性においてのみ、数々の非物体的な出来事が表現されることになる。物体が占める場所もまたそのようなものであるし、さらにまた、物体が占める境界の内側が充実する一方で、その外側には無規定さとしての空虚が広がるという世界観が示されもする。時間もまたそのようなものとして、実在性が否定される。時間はきわめて動詞的(述語的)なものでしかなく(動詞にしか適用されない)、物体の存在といかなる実体的な接触をもつこともない、というわけだ。同書の後半は訳者である江川氏による解説(というか、ストア派についての論考)で、そのブレイエ的な「非物体的なもの」をもとに、ブレイエが同書では直接言及していない部分も含めて、ストア派の全体像を描き出そうとしているのだが、それによると「場所」とは、「物体が産出する非物体的な<図式>であると言うべき」だとされる。空虚に対する場所のように、「時間」もまた、無規定な「無限なる時間」に対する限定的な時間が、物体によって産出された非物体的なものとされる。