物神を分離しないということ

近代の〈物神事実〉崇拝について ―ならびに「聖像衝突」邦訳が出たラトゥールの『近代の〈物神事実〉崇拝について ―ならびに「聖像衝突」』(荒金直人訳、以文社、2017)を読んでいるところ。原著は2009年刊。ラトゥールの名前を、従来のブルーノではなく、仏語風にブリュノにしたところに、激しく共感を覚えるが、それはともかく(笑)。まだ前半部の第一部を見ただけだけれども、同書が突きつける問題もきわめて明敏なもの。軸線をなしているのは三つの逸話だ。一つめは、ギニアの黒人たちがポルトガル人に訊かれて、自分たちが崇める偶像を自分たちが作ったと語りつつ、それが本物の神々であると述べるという話。ポルトガル人はここで、みずからの信仰(キリスト教)を顧みることもなく、黒人たちが矛盾していることをしたり顔で指摘する。だが黒人たちはその矛盾を理解できずただ沈黙するしかない。二つめは、パストゥールの逸話。パストゥールは新しい酵母を研究室で作り上げる。けれどもその報告においては、それが作られたものであるということを認めつつも、その酵母がきわめて<自然な>プロセスでもって発酵をなすことを高らかにうたいあげるのだ。構成主義から実在論へと、矛盾を感じることもなくただシフトしていく。ここには、先の黒人たちとパラレルな思考の構えがあるのではないか、とラトゥールは問う。

しかもそれは、人間にとってなくてはならない構えかもしれない、と。そのことを示すのが、三つめの逸話。これはフィクションなのだが(インドの小説)、描かれている人間像はきわめてリアルではある。カーストの高い位に属する啓蒙家が、偶像になんの力もないことを示そうと、不可触民たちに物神となっている石を触らせようとする。だがその不可触民たちは恐れおののき、頑なにそれを拒む。啓蒙家は次第にわれを忘れ、激高し、人間性を失っていく……。ここから、黒人たちやパストゥールに見られる矛盾は、それを矛盾として示したからといって廃絶されるようなものではないことがわかるし、さらにそれを無理に廃絶しようとするならば、文字通り人間性すら喪失するほどの危機に見舞われる可能性があることも示唆される。つまり物神(崇拝の対象)と事実(対象が人の手によって作られたこと)とは<もとより>渾然一体となっていて、それが人間性を文字通り支えているのではないか。それを無理矢理分離するのではなく、そのまま受け容れることこそ、別様のパースペクティブをもたらす鍵があるのではないか。私たちを取り巻くそうした様々な「物神事実」(fait + fétiche -> faitiche)を、すべて回復させ、世界を描写し直すこと。ラトゥールが提唱する対称性人類学とはまさにそのようなものらしい。どこか中国思想(先のジュリアンの著書が念頭にあるわけだが)にも通じるかのような、どこか古くて新しい喜ばしき知恵という印象だ。